デザイナーたちの物語 フィリッポ・ブルネレスキ
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
◯ルネサンスの革命的建築家
今回ご紹介するのはフィリッポ・ブルネレスキ。
イタリア・フィレンツェ生まれの建築家であり、ルネサンス様式の創始者とされています。
また最初に数学的な透視図法を用いたともいわれ、彼の手法は19世紀後半までの絵画の空間描写の規範となっており、広義における近代的な建築芸術の扉を開いた人物と言えます。
ブルネレスキは、はじめ、金銀細工師、彫刻家として出発しましたが、1418年のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドームの設計競技において、八角形の二重殻構造案で当選し、建築家に転向することとなります。
その後、彼が設計した捨子保育院では、コリント式円柱、半円アーチ、エンタプラチュア、ペディメントなどの古典的モチーフが用いられ、建築史上最初のルネサンス建築と位置づけられています。
さらに、聖スピリト聖堂では、側廊の幅を基準とした比例関係が内部空間全体に適用され、極めて合理的な設計がなされました。
その平面は、ラテン十字形を基本としながら、袖廊や内陣を含めすべての方向に側廊を巡らせ、交差部上にドームを載せることで集中堂のような形式をとり、古代ローマ建築を想起させるものとなっています。
また、聖マリア・デッリ・アンジェリでは八角形の平面が採用され、完全なる集中堂空間の構築が試みられました。
こうした発想は、彼のローマ訪問に基づくものであるといわれ、合理性と古典古代の文化を重要視する、ルネサンスの撃明を告げるものでした。
◯インスピレーションは古代ローマの建築から
ブルネレスキは、1377年にイタリアのフィレンツェの裕福な家で生まれました。
幼いブルネレスキは、公務員である父の跡を継ぐために、文学と数学の教育を受けました。
しかし、芸術に興味があったブルネレスキは、15歳になると、市内で最も裕福で権威のある絹商人ギルド「アルテ・デッラ・セタ」に弟子入りします。そこには宝石商や金属加工職人もいました。
そこで彼は金細工と鋳造されたブロンズを扱う彫刻家の資格を取得します。
ブルネレスキの現存する最古の彫刻作品は、十字架礼拝堂ピストイア大聖堂の祭壇のために作られた2体の小さなブロンズ製の福音書記者と聖人の像です。
初期のルネサンス期では、古代ギリシア・ローマ文化への関心が再燃し、ビザンチン美術を中心とした中世の形式的で生々しさに欠ける美術よりも、古代ギリシア・ローマの美術が高く評価されるようになりました。
この時期、ブルネレスキは古代遺跡を研究するため、友人の彫刻家と一緒にローマを訪れています。
当時、古代ローマの栄光は一般的に語られていたが、ブルネレスキが遺跡の物理構造を詳細に研究するまで、実際に研究した人はほとんどいなかったそうです。
ブルネレスキが古典的なローマ建築を研究していたことは、彼の建築デザインの特徴的な要素である、均一な照明、建物内の明確な建築要素の最小化、および空間を均質化するためのそれらの要素のバランスに見ることができます。
ブルネレスキは、ローマの遺跡を観察した後に線形遠近法を開発したと考えられています。
◯遠近法の祖
間もなく、現在は失われてしまったサン・ヤコポ・ソプラ・アルノ教会のリドルフィ礼拝堂や、サンタ・フェリチタのバルバドーリ礼拝堂など、他の注文が舞い込んで来るようになります。
ブルネレスキは、建築分野での業績のほかに、線形遠近法の理論を初めて記述し、絵画に革命をもたらしました。
彼は、物体、建物、風景が、遠くから見たときや異なる角度から見た時に、どのように、なぜ変化し、線が形を変えて見えるのかを体系的に研究、フィレンツェの洗礼堂やサン・ジョバンニ広場などのフィレンツェのランドマークを正確な遠近法で描いています。
遠近法に関するブルネレスキの研究は、その後レオナルド・ダ・ヴィンチらよっても深化されていきます。
彼らが研究した遠近法のルールに従えば、芸術家は想像上の風景や場面を、完璧に正確な三次元の遠近法とリアリズムで描くことができるようになったのです。
◯代表作2点
ブルネレスキの代表作をご紹介します。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドーム
ルネサンス期のフィレンツェのシンボルともいえる建築です。
建築そのものは1296年に起工されたものの、前例のない大規模なドーム架構は極めて困難であり、1418年にドームの設計競技が行われました。
競技に勝利したのがブルネレスキの案で、地上55~120mまでの高さの大ドームをフィレンツェの街に出現させたのです。
フルネレスキが考案した、ドームの八角形の二重殻構造では、内側の壁が外側の壁よりも厚く、かつ十分な間が空いており、内側の壁が外側の壁を支える仕組みとなっています。
ドームは、ルネサンスの合理性の象徴として高くそびえています。
捨子保育院
ブルネレスキが最初に手がけた建築です。
ブルネレスキが完成させた主要部分は、9つのアーチを持つアーケードまたはロッジアで、両側を柱のように見えるピラスターで支えられ、小さな扉で内部に向かって開いていました。
このアーケードは、コリント式の柱頭を持つ細い柱で支えられています。この最初のアーケードは、円柱、丸みを帯びたアーチ、シンプルな古典的装飾を備えており、ヨーロッパ中の一連のルネサンス建築のモデルとなりました。
細い柱、緩やかな半円アーチによって構成された軽やかで開放的なロッジア (開廊)と、コリント式円柱、 エンタブラチュア(柱頭)、 ペディメント(破風)などの古典的なモチーフが配置されたファサードをもっています。
その長いロッジアは、フィレンツェの狭く曲がりくねった通りでは珍しかったそうです。
洗練された大理石や装飾的な象嵌などは見られず、威厳のある地味な建物で、また、フィレンツェで初めて柱や柱頭に古典古代を明確に引用した建物でもあります。
細い柱、緩やかな半円アーチによって構成された軽やかで開放的なロッジア (開廊)、コリント式円柱、エンタブラチュア(柱頭)、ペディメント(破風)など、
古典的なモチーフが配置されたファサードをもつこの作品は、純重なゴシックの世界から飛翔し、ルネサンスの幕開けを告げた建築です。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。