デザイナーたちの物語 ゴットフリート・ゼンパー
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
◯波瀾万丈な近代ドイツの建設家
今回ご紹介するのはゴットフリート・ゼンパー。
19世紀ドイツの建築家、美術評論家です。
ゼンパーはハンブルク近郊の実業家の子として生まれ、大学では史学史と数学を学び、後にミュンヘン大学建築を学ぶようになります。
しかし、決闘事件を起こしパリへと逃亡、3年ほど古典主義建築を学びます。
その後イタリア各地で本場のルネサンス建築や古代の遺跡に触れ、大きな感銘を受けます。
1832年にドイツに帰国、新古典主義の建築家シンケルの知遇を得ます。
ゼンパーは恩師の尽力と支援により、1834年にドレスデンのザクセン王立芸術学校教授に任命され、そこで代表作となるオペラ座ゼンパーオーパーを手がけました。
またこの時期のドレスデンは繁栄していたため、若手建築家にとってチャンスが多かったようです。
ゼンパーはほかにシナゴーグを建設し、以後「ゼンパー・シナゴーグ」と呼ばれるようになりました。
作曲家リヒャルト・ワーグナーともこの時に親交を結んでいます。
1849年、ドレスデンで暴動が起こると、ゼンパーはこれを支援したため死刑判決を受け、亡命を余儀なくされます。
パリなどを経てロンドンに赴き、ロンドンで開催された万国博覧会やサウス・ケンジントン美術館設立にも協力しました。
それからワーグナーの推薦で1855年には設立されたばかりのチューリッヒ工科大学に教授として招かれ、亡命中からスイスに至るまでに蓄積していた研究をまとめていきました。
亡命中に書かれた一連の建築書には『建築の四要素』や『科学、工業、芸術』、『様式論』があります。
『建築の四要素」では、「炉」「床」「屋根」「皮膜(壁)」の4つが建築を形づくる基本要素であると定義されています。
ここで重要なのは、「炉」には冶金や窯業、「床」には石工、「屋根」には木工、「皮膜」には織物というように、
建物を構成する部位と素材の加工技術との対応から、建築を説明しようとしたことにあります。
古典主義建築の神話的な世界観から、建築は人間の技術的な営みから生まれるという考え方へと、建築観が大きく転換する契機となったとされています。
ほかの著作と合わせ、これらは後のモダニズム建築をはじめとした建築や建築論に決定的な影響を与えたと見做されています。
◯代表作
ゼンパーオーパー
ドイツのドレスデンにある州立歌劇場です。
1838年から1841年にかけてゼンパーの設計により建設されましたが、その後火災による消失を経て、1871年に同じくゼンパーの設計で再建されました。
ゼンパーオーパーは、初期ルネッサンスとバロック、そしてギリシャ古典主義復興期のコリント様式の柱という3つの様式の特徴を持っているため、建物の様式自体については議論は多いようです。
ただ、ゼンパーが最初に手がけたこのオペラハウスは、ヨーロッパで最も美しいオペラハウスの一つとして評価されています。
火災後、ドレスデン市民は直ちにオペラハウスの再建に着手しました。
ゼンパーはドレスデン蜂起に関与したために亡命中でしたが、市民はゼンパーに再建を依頼します。
ゼンパーは自分の設計図をもとに、息子のマンフレッド・ゼンパーに第2オペラハウスを建設させました。
1878年に完成したこのオペラハウスは、ネオ・ルネッサンス様式を採用しています。
ドレスデンの中心部、エルベ川沿いの劇場広場に建っているこの建物は「ドレスデン・バロック」建築の代表例とされています。
正面玄関の上のモニュメントには、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、フリードリヒ・シラー、ウィリアム・シェイクスピア、などの芸術家が描かれています。
第二次世界大戦末期の1945年、ドレスデン爆撃とそれに伴う大火災により、建物は再び大きく破壊され、外壁のみが残されました。
それからちょうど40年後の1985年、オペラの再建が完了。
2002年にエルベ川が氾濫した際、ゼンパーオーパーはひどい浸水に見舞われましたが、世界中からの多大な支援により、同年12月に再開されました。
ゼンパー・ギャラリー
新古典主義様式の長く伸びた建物で、北側はゼンパー・オペラハウスのある劇場広場に接しています。
ゼンパーは王宮の絵画コレクションにふさわしい建築物の設計を依頼されました。
ルネッサンス期のイタリアのパラッツォを彷彿とさせる建物です。
第二次世界大戦までゼンパーギャラリーには絵画コレクションだけでなく、版画、デッサン、写真のコレクションや、古典彫刻のコレクションも保管されていました。
大戦中は爆撃を受け、建物は大きな被害を蒙りますが、ほとんどの絵画は先に避難して保管されていたため、被害はありませんでした。
建物の再建は1960年に完了し、その後4年以上の修復期間を経て、1992年に再オープンしました。
美術史美術館
オーストリアウィーンの美術館です。
フランツ・ヨーゼフ1世の命によりゼンパーが設計し、ゼンパー没後はカール・フォンハーゼナウアが引き継いで1881年に完成させました。
ネオ・ルネサンス様式の3層構成で、平面計画はゼンバーによるものとされています。
エントランスにはドリス式、イオニア式、コリント式の柱頭が並んでいます。
ゼンパー・シナゴーグ
外観はロマネスク様式ですが、内部は後にムーア復興主義建築の特徴となる豊かな装飾が施されています。
凝ったアラビア風の内部には、アルハンブラ宮殿の円柱に支えられた2段のバルコニーが設えられています。
シナゴーグは旧市街の城壁沿い、川沿いに位置し、ゼンパーがシナゴーグ建設と同時に建設していたゼンパーオーパーから500メートルほど離れたところにありました。
このシナゴーグは建設から100後、残念ながらナチスによって1938年に破壊されました。
チューリッヒ工科大学の本館
新古典主義様式を採用し、大胆で明快なマス目と地面に施された石畳や上部の巨大なオーダーなどのディテールが強調されています。
ゼンパーはこの設計コンペの審査委員長として、提出された作品に不満を抱き、自ら設計を担当したそうです。
チューリッヒの中心部を見下ろすテラスに、かつて城壁があった場所に堂々と建てられた新学校は、新しい時代のシンボルとなりました。
度重なる改築にもかかわらず、ゼンパーのコンセプトを色濃く残しています。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。