デザイナーたちの物語 アドロフ・ロース
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
◯伝統的建築に一石を投じた実用主義的建築家
今回ご紹介する建築家はアドロフ・ロース。20世紀オーストリアの建築家です。
ロースは、ドイツのドレスデンで建築を学んだ後、アメリカへと渡ります。
オットー・ワグナーの実用主義の影響を受けていたロースは、当時のウィーンの街並を埋め尽くす表層的な装飾を批判しました。
彼は「装飾は罪悪である」と言い放ち、建築界に波紋を呼ぶことになります。
この挑発的な言葉の矛先は、ワグナーの直弟子でありながら、その教えの本質を忘れ装飾に走ったウィーン分離派に向かっていました。
ロースは装飾そのものを否定したわけではなく、生活文化から離れた表面的な装飾を徹底的に批判することで、むしろ実用と結びついた明快な表現や装飾を目指していたと言えます。
ロースのこうした考え方は、のちに「ラウムプラン」と呼ばれる独自の設計手法に結実していきます。
建築を二次元的な形式ではなく三次元の空間と捉え、生活に応じてボリュームを水平・垂直に割り当てることで、多様で変化に富む内部空間をもつ住宅作品を残しました。
◯石工の息子として
ロースは1870年、オーストリア・ハンガリー帝国のモラヴィア侯国(現在のチェコ共和国東部)のブルノで生まれました。
石工であった父は、ロースが9歳のときに亡くなりました。
幼いロースは父の聴覚障害を受け継いでおり、生涯を通じてその障害に悩まされました。
ロースは技術学校に通い、1889年にブルノの技術学校を卒業。
その後ドレスデン工科大学に留学、さらにアメリカへと渡ります。
フィラデルフィアの親戚の家に住み、雑用をこなしながら、シカゴ万国博覧会やセントルイス、ニューヨークなどを訪れ、アメリカの合理主義や平等主義に接しました。
帰国後はウィーンを拠点に店舗や内装の設計を手がけながら、新聞や雑誌に論文を発表するなど旺盛な執筆活動に取り掛かります。
一時的にウィーン分離派に参加した後、分離派のスタイルを否定し、飾り気のない新しい建築を提唱しました。
彼の初期の仕事は、ウィーンのショップやカフェのインテリアデザインが中心でした。
1912年にロース建築学校を設立。第一次世界大戦後の1921年からはウィーン市の住宅建設局で主任建築家になり、労働者住宅の設計にも尽力しましたが、
自身の設計案が却下されたことをきっかけに1924年退職、翌年パリに居を移します。
晩年は絵を描いて過ごしましたが、死の直前に全て焼き捨てたという。
◯代表作2点
ロースハウス
「罪悪」である装飾を排除したロースの話題作です。
ウィーン旧市街のミヒャエル広場に面し、上階が集合住宅、下階が商業施設として計画されました。
装飾を徹底的に排除し、庇すら設けなかったため「眉のない建物」と揶揄された上階に対し、下階はドリス式の円柱注にガラスのショーウィンドウが挟まるなど、商業空間としての演出が見られます。
ロースハウスは、ウィーンの王宮前で歴史的建造物が並ぶ一角に建設されたため、当時は激しい非難を浴びました。
それによって建設が一時中断され、最終的には窓辺に花壇をつけることを条件に建設が許可されたほどです。
それだけこの作品は、歴史的建築の趣向がまだ残るウィーンに衝撃を与えたわけです。
ミュラー邸
初期モダニズム建築の革新的なランドマークとして知られる作品で、ロースの経済性と機能性の思想を体現しています。
白く塗られた四角い外壁に黄色い窓枠のみの、極めてシンプルな外観から一転、内部は細かいレベルの差のある空間が複雑に絡み合い、豊かで多様な空間が広がっています。
ミュラー邸の外観で、ロースは白い立方体のファサードをデザインしました。
人目に触れる外観と、そこに住む人たちのプライベートな空間である内面を区別したいと考え、その結果、内部は快適な家具と大理石、木、シルクなどで贅沢に装飾されています。
また、「ラウムプラン」と呼ばれる、機能に基づいて室内空間の順序や大きさを検討し、個々の部屋を三次元的に効率よく配置する経済的な設計手法を用いています。
ロース曰く
「私の建築はプランではなく、スペース(キューブ)で考えられています。私は、フロアプラン、ファサード、個室をデザインするのではなく、空間をデザインするのです。
私には1階、2階、3階などはありません。私にとって、連続した空間、部屋、控え室、テラスなどがあるだけです。階層は融合し、空間は互いに関連して合っています」
◯「装飾は罪悪である」
1900年に出版された『虚空に向かって語る』の中で、ロースはウィーン分離派全盛の時代の分離派を攻撃しています。
1913年に初版が発行された『装飾と犯罪』では「装飾は罪悪である」を説き、日常的なものから装飾が削除されることは文化の進歩であり、
それゆえ、職人や建築家に無駄な装飾をさせることは、物の陳腐化を早めることになり、犯罪であるというデザイン論を展開しました。
贅肉をそぎ落としたロースの建物は、現代建築のミニマリズム(最小限主義)にも影響を与え、賛否両論を巻き起こしました。
ロースの建築物は、外観には装飾こそないものの、内部には石や大理石、木などの高価な素材がふんだんに使われており、自然の模様や質感が平面的に表現され、一流の職人技で仕上げられているものが多い。
複雑なものと単純なものの区別ではなく、有機的な装飾と余分な装飾の区別をロースは重要視しました。
◯健康問題
ロースは生涯、聴覚障害を患っていました。性格も気難しく、建築界では孤立気味だったと言われています。
子ども頃は耳が聞こえず、12歳になってようやく部分的に耳が聞こえるようになりました。
しかし50歳になる頃には、ほとんど耳が聞こえなくなっていたという。
また40代で癌と診断され、胃腸の一部を切除しています。
晩年は認知症の初期症状を示し、死の数ヶ月前には脳卒中を患う。
1933年8月23日、ウィーン近郊のカルクスブルクで62歳の生涯を閉じました。
ロースは、その著作やウィーンでの先駆的な事業を通じて、他の建築家やデザイナー、そしてモダニズムの初期の発展に影響を与えた人物です。
素材の吟味、職人技に傾ける情熱、そしてラウムプランの採用は、今なお賞賛されています。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。