デザイナーたちの物語 エーリヒ・メンデルゾーン

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

◯鉄筋コンクリート造による建築の解放を目指して

今回ご紹介するのはエーリヒ・メンデルゾーンです。

 
メンデルゾーン7
 

東プロイセン生まれのユダヤ人建築家です。

 

大学ではブルーノ・タゥトの師でもあるテオドール・フィッシャー教授から薫陶を受けました。

 

卒業後に自身の設計事務所を開設しますが、第一次世界大戦で兵役についたため、代表的な建築の完成は1920年代を待つことになります。

 

1930年代になると、今度はナチス・ドイツの台頭により、迫害を恐れイギリスに渡ります。

 

その後アメリカのサンフランシスコへと移り、1945年には同地で事務所を開設。以降アメリカで設計活動を行いました。

 

メンデルゾーンの処女作であるアインシュタイン塔は、表現主義の代表作とされています。

 

先行するアール・ヌーヴォーやユーゲントシュティールがあくまで装飾表現としての自由の表明であったのに対して、

 

第一次世界大戦前後のヨーロッパにおいて広がった表現主義は、建築全体の形態を既存の枠組みから解放しようとした運動でした。

 

その中でメンデルゾーンは、当時新しく普及しつつあった鉄筋コンクリート造の造形性に着目して、大戦中に描き溜めていたドローイングをもとに、彫塑的で自由な形態を具現化していったのです。

 
メンデルゾーン7
 

◯早熟の天才

メンデルゾーンは1887年に東プロイセンに生まれました。

 

母は帽子職人、父は商店主でした。

 

ベルリンで商業訓練を受けたのち、ミュンヘン大学で経済学を、ベルリン工科大学で建築を学び、そしてミュンヘン工科大学に編入し、1912年に優秀な成績で卒業しました。

 

卒業した年に独立し、事務所を開設します。

 

第一次世界大戦からの帰還後、ベルリンに活動拠点を構えました。帽子工場の設計などに携わり早くも頭角を表すようになります。

 

1924年、メンデルゾーンはミース・ファン・デル・ローエ、ヴァルター・グロピウスとともに、「デル・リング」と呼ばれる進歩的な建築グループを創設します。

 

1933年春、ドイツで反ユダヤ主義が高まり、ナチスが台頭してきたため、メンデルゾーンはイギリスに亡命しました。

 

ナチスに資産を没収され、ドイツ建築家組合の名簿からも名前が抹消され、プロイセン芸術アカデミーからも除名されました。

 

イギリスで建築事務所を設立し、1936年末まで個人住宅や娯楽と芸術の複合施設「デ・ラ・ワー・パビリオン」などを手掛けました。

 

メンデルゾーンは、後にイスラエル大統領となるチャイム・ワイズマンと古くからの知り合いでした。

 

その関係で1934年の初め、彼は英国委任統治時代のパレスチナでの一連のプロジェクトを手掛け始め、1935年にエルサレムに事務所を開設します。

 

そこでメンデルゾーンは研究所、銀行、病院など数多くの公共施設を建設しました。

 

1941年から亡くなるまで、メンデルゾーンはアメリカに住み、カリフォルニア大学バークレー校で教鞭をとっていました。

 

1945年にはサンフランシスコに移住し、1953年に亡くなるまでは主にユダヤ人コミュニティのためにさまざまなプロジェクトを手がけました。

 

◯メンデルゾーンの代表作3点

アインシュタイン塔

 
メンデルゾーン7
 

物理学者アルベルト・アインシュタインの相対性理論を実証するために建てられた実験施設であり、表現主義の傑作と言われる作品です。

 

内部に天体望遠鏡が設置されています。

 

装飾は排除され、建築自体に流動的な造形性が与えられています。

 

アインシュタイン塔は太陽光を地下まで取り入れるためにL字形の断面形が要求されました。

 

メンデルゾーンはこれに彫塑的なフォルムを与え、表現主義の傑作を生み出したのです。

 

アインシュタイン塔は1917年頃から構想が始まり、1919年から1921年にかけて資金集めと建設、1924年に運用が開始されました。

 

アインシュタインはここで働くことはありませんでしたが、望遠鏡の建設と運用を支援したそうです。

 

メンデルゾーン自身は、「アインシュタインの宇宙にまつわる神秘性」から浮かび上がらせるように、未知の衝動をデザインしたのだと語っています。

 

外観は当初コンクリートで構想されていましたが、複雑な設計による施工上の困難や戦争による物資不足のため、実際には建物の大部分はレンガが使われています。

 

建築中に素材が変更されたため、それに合わせた設計変更されておらず、ひび割れや湿気など、さまざまな問題が発生しました。

 

最初の建設からわずか5年後には、メンデルゾーン自身の手で大規模な修繕が行われました。

 

第二次世界大戦での連合軍の爆撃を経て生き残り、1999年、創立75周年を記念して全面的な改修が行われ、何十年にもわたって修理が必要だった湿気や腐敗の問題が解決されました。

 

メンデルゾーンは妻であるチェロ奏者のルイーズ・マースを通じて、チェロを弾く天体物理学者アーウィン・フィンレー・フロインドリヒと出会うのですが、

 

フロインドリヒは、アインシュタインの相対性理論を実証できる天体観測所を建設したいと考えていたため、メンデルゾーンに話が回ってきた経緯があったようです。

 

ショッケン百貨店

 
メンデルゾーン7
 

ユダヤ人オーナーであるショッケン兄弟がメンデルゾーンに設計を依頼しだ百貨店です。

 

ニュルンベルクとシュトゥットガルトにも支店がありましたが、現在残っているのはケムニッツのみ。

 

湾曲したファサードが表現主義的ですが、どちらかというと正当な近代建築に近しい。

 

モッセハウス

 
メンデルゾーン7
 

ベルリンにあるオフィスビルで、1921年から1923年にかけてメンデルゾーンが設計しました。

 

元々の建物には新聞社の印刷所とオフィスが入っていました。

 

1921年、アインシュタイン塔の実績を買われたメンデルゾーンは、建物の増築と新しいエントランスの設置を依頼されました。

 

新しい正面にはアルミニウムとモダンなタイポグラフィが多用され、新しい上層階には鉄筋コンクリートが使用されました。

 

彫刻的な要素を用いることでダイナミックかつ未来的なフォルムとなっており、流線型建築の最初の作品の一つです。

 

モッセハウスはベルリンの壁のすぐ近くにあり、第二次世界大戦後に老朽化してしまいましたが、1990年代に修復されています。

 

ルッケンヴァルトの帽子工場

 
メンデルゾーン7
 

メンデルゾーンの出世作です。帽子工場は1921年に発注され、メンデルゾーンは4つの生産ホール、ボイラー室、タービン室、2つのゲートハウス、染色ホールを設計しました。

 

染色ホールは染色工程で発生する有毒ガスを排出するための近代的な換気フードを備えており、帽子に似た構造が特徴的です。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 

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