デザイナーたちの物語 ヴィクトール・オルタ
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
◯曲線が踊る、優美な空間
今回ご紹介するのはベルギーの建築家、ヴィクトール・オルタです。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、「新しい芸術」を意味する「アール·ヌーヴォー」と呼ばれる芸術潮流がパリを中心に流行しました。
建築分野では過去の建築様式の模倣からの脱却が目指され、「ジャポニズム」などの非西欧圏の芸術や、
前回のコラムでも取り上げた「アーツ・アンド・クラフツ運動」を理論的基盤としながら、近代社会生活への新しい建築材料の応用方法を模索する流れです。
様式の特徴としては、花や植物などの有機的なモチーフや自由な曲線、モザイク、壁画、ステンドグラスの組み合わせによる装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などがあります。
アール・ヌーヴォーは、第一次世界大戦を境に、装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになるとアール・デコへの移行が起きたことで顧みられなくなっていくものの、
1960年代になってから、アメリカでアール・ヌーヴォーの復興と再評価が進み、新古典主義とモダニズムの架け橋と考えられるようになっていきます。
そこで最初のアール・ヌーヴォー建築を建設したのが、ヴィクトール・オルタなのです。
◯鉄とガラスと曲線
オルタは1861年、ベルギーのゲントで生まれました。
靴職人だった父親は職人技を高い芸術と考えていたようで、それが息子の影響を与えたのかもしれません。
12歳の頃、叔父が働いていた建設現場を手伝ったのが建築に興味を持ったきっかけであったと言われています。
若きオルタはゲント音楽院で音楽を学び始めますが、悪質な行為をしたために退学となり、代わりにゲント王立芸術アカデミーに入学、ドローイング、織物、建築を学びました。
そしてパリでインテリアデザイナーとして働いた後、父の死を機に帰国し、ブリュッセル王立美術アカデミーで建築を学びました。
そこで、台頭しつつあった印象派や点描主義の影響を受けると同時に、鉄とガラスの可能性を実感する機会を得ました。
大学教授で新古典主義建築家のアルフォンス・バラの助手となり、ガラスと鉄が用いられた王宮温室の設計に携わった後、1885年に独立。
最初は住宅の設計を手掛けていましたが、富裕層のための住宅設計を避けるようになり、専ら公共物のコンペに打ち込むようになります。
制作対象は建築にとどまらず、彫刻、果ては墓石にまで及びました。
この頃すでにオルタは弯曲した形状に注目していました。
そのデザインには批判的な声も決して小さくありませんでしたが、やがてオルタの元には次々とブリュッセル中の重要な建築物の設計依頼が舞い込むようになります。
◯代表作4点
続いて、オルタの作品について紹介していきます。
タッセル邸
オルタが手掛けた、史上初のアール・ヌーヴォー建築です。
近隣の建物と調和するように設計された石造りのファサードは古典的な様式でしたが、内部は革新的でした。
当時の新素材であった鉄とガラスを多用し、鉄を構造体としてだけでなく、つるや花といった植物をモチーフとした有機的な曲線形状としてあしらわれました。
ベルギーの古典的な間取りと一線を画し、流麗で緻密な装飾と自然光に彩られた空間となっています。
またそうした曲線美は、階段の手すり、床のタイル、ドアや天窓のガラス、壁に描かれた絵画などにも使われ、優美な内装を創り上げています。
この建物は、建築におけるアール・ヌーヴォーの最初の登場として広く認識され、2000年には、オルタ設計による他の3棟の町家とともにユネスコの世界遺産に指定されました。
これらを指定するにあたり、ユネスコは次のように説明しています。
「これらの作品に代表される様式革命は、その開放的な平面、光の拡散、建物の構造と装飾の曲線が見事に結合していることが特徴である。」
オルタ邸
オルタの自邸兼アトリエです。 自邸とアトリエは、外部から見ると隣接し独立した建物となっていますが、内部で繋がっています。
スキップフロアとガラス天井をもつ階段室によって、明るく開放的な内部空間を実現しています。
ホルタ邸とそれに続く彼の作品の斬新な要素として、最大限の透明性と光を追求したことが挙げられます、
彼は、大きな窓、天窓、鏡、そして特に開放的な間取りを採用し、四方から、そして上からの光を取り入れることでこれを実現しました。
また階段の装飾に木、鉄、大理石などの素材の珍しい組み合わせを使った点も独自の特徴です。
現在この建物はオルタ美術館として使われています。
ホテル・ソルヴェイ
オテル・ソルヴェイは、ベルギーの化学者で実業家のアーネスト・ソルヴェイの息子であるアルマン・ソルヴェイのために建設されました。
ホルタは事実上無制限の予算を持っていたため、外装からインテリアに至るまで、オルタ設計によるアール・ヌーヴォー装飾がふんだんに施された傑作です。
階段の装飾には大理石やブロンズ、珍しい熱帯産の木材など、エキゾチックな素材を珍しい組み合わせで使用し、
階段の壁は、ベルギーの点描画家テオ・ファン・ライゼルベルヘによって装飾されました。
また建築全体の様式に合わせて、ブロンズのドアベルやハウスナンバーなど、細部に至るまでデザインを作り込みました。
マガシンス・ワウカス
元々はテキスタイル専門の百貨店として建築されました。
そのデザインにおいて、ホルタは鉄とガラスを使ったあらゆる技術を駆使して、ドラマチックな開放空間を作り、上からの光をふんだんに採光することに成功しました。
スチールとガラスの天窓には、新古典主義様式な柱などの装飾が組み合わされています。
1970年に閉店しても、建物自体は歴史的建造物として保護されてい今に至ります。
現在はベルギーコミックスセンターとなっています。
◯建築家の静かな幕引き
ベルギーのアール・ヌーヴォーの展開は社会状況とも密接に関わっており、オルタは労働党本部のほか、
駅やホールなどの公共建築も手がけましたが、20世紀に入るとアール・ヌーヴォーの作風を捨て、新しい作風を模索していきました。
その後は再び脚光を浴びることは少なくなったものの、オルタの残した建築は、後にフランスのアール・ヌーヴォー建築を牽引したエクトールギマールらに影響を与えていきます。
1937年には、オルタの最後の作品であるブリュッセル中央駅の設計を完成させ、その10年後に亡くなりました。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。