デザイナーたちの物語 コンスタンチン・メルニコフ

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

◯一匹狼の前衛巨匠

今回ご紹介するのはコンスタンチン・メルニコフ。

 
メルニコフ
 

20世紀初頭のソ連で興った「ロシア構成主義(キュビスムの影響を受け、非対象性・幾何学的形態、革新性、象徴性等を特徴とする)」並びに

 

「ロシア・アヴァンギャルド(ロシア前衛主義)」という芸術運動の最先端で活躍した建築家です。

 

ただメルニコフ本人は、前衛として語られることを嫌いだったようで、これらの運動には参加しませんでした。特定のスタイルや芸術団体のルールに縛られない一匹狼の芸術家だったと言います。

 

彼の作風を特定の様式に当てはめるのが難しい。

 

建築において「芸術的独自性」をことさら重視し、自身のデザインでさえ反復することを嫌い、

 

作品の多くは幾何学を基本としているものの、プロジェクトごとに新たな組み合わせや空間が考案されました。

 

六角形、メガホン、鳥かご、プロジェクターなど、 様々なモチーフを建築に用いましたが、一度使用したモチーフは決して再び使用しなかったそうです。

 
メルニコフ
 

◯貧困からの立身

メルニコフはモスクワで生まれ、モスクワで亡くなりました。

 

父は道路整備技師で、母は農民でした。家族全員は国営の労働者階級のバラックの一室に住み、暮らし向きはあまり良い方ではなかったようです。

 

メルニコフの父は、息子が絵を描くことに夢中になっていることに気付き、絵を描くための紙くずを探して持って帰っていました。

 

メルニコフは13歳の頃、奇跡的な出会いを果たします。

 

モスクワの裕福な実業家、ウラジーミル・チャップリンの家族に仕えていた牛乳配達員の女性がメルニコフの絵を見て、自分の雇い主に勧めたのです。

 

メルニコフの才能に感銘を受けたチャップリンは、彼の会社でメルニコフを雇いながら学業の支援を申し出ます。

 

おかげでメルニコフはその2年後に名門モスクワ絵画彫刻建築学校に合格、入学を果たします。

 

第一次世界大戦と1917年のロシア革命後の最初の数年間でメルニコフが携わった建築は新古典主義の伝統に沿っており、特筆すべきもののない平板なものばかりでした。

 

◯作風の大転換

しかし、1923年にモスクワで再び国立学校で建築学を履修した後に、彼のスタイルは一変します。

 

1923年の全ロシア農業博覧会(現、全ロシア博覧センター)のマホルカ・パビリオンの設計を皮切りに、メルニコフは斬新かつ革新的な設計プランを打ち出し注目を集めるようになります。

 
メルニコフ
 

1924年にレーニン廟、1925年にパリ現代産業装飾芸術万国博覧会ソ連パビリオンを発表。

 

特にパリのソ連パビリオンは、異なる大きさの片勾配屋根を組み合わせた木造建築となっており、博覧会で最もエポックな建築物の一つとして評価され、世界的な注目を浴びました。

 
メルニコフ
 

1926年、ソ連政府が労働者クラブのための建物に関する政令を出し、翌年以降から全国で建設ラッシュが進みました。

 

メルニコフは建設プロジェクトのうちの7件を手掛けています。それぞれ似通った機能を持っているにも関わらず、デザインは建物ごとに全て異なっていました。

 

中でもルサコフ・クラブは最も有名な作品で、3つのホールの座席を突出させたダイナミックなファサードが特徴です。

 
ルサコフ
 

◯代表作・メルニコフ邸

メルニコフ最大の代表作は彼が自身と家族のための設計した自邸です。彼は自宅で仕事をすることを好み、広い仕事スペースのある住宅を望んでいました。

 

彼の自邸はそれまでのどんな建築にも似ていません。

 

漆喰で白く塗り固められた装飾のない壁。建物正面は筒を大きく開き、一面ガラス張りになっています。

 
メルニコフ
 

シンプルな幾何学の造形はモダンでありながら、高さの異なる二つの円筒を重ねた外観や規則的に配置された六角形の窓が独自の個性を主張しています。

 

道路に近い円筒部分には階別に食堂、居間、ルーフテラスといったパブリックな空間を配置し、奥の円筒部分には更衣室、寝室、アトリエなどプライベートな空間という設計になっています。

 

内部構成で特徴的なのは、家族全員で使う2階の寝室です。

 

家族の日常生活は1階だけで完結できるようにデザインされましたが、寝室だけ2階に設けられたのは「睡眠は夢を見るための大切な時間である」とメルニコフは考えたからです。

 

寝室を部屋の中でも彼にとっては特別な空間でした。

 

3階には、天井の高い空間に窓から光が差し込むアトリエが配置されていました。

 
メルニコフ
 

この自邸はレンガをずらしながら積んでいくローテクな工法でつくられて、またローコストで建設するため端材や壊れたレンガも使われたそうです。

 

前衛的なデザインでありながらも、どこか近代に逆行する雰囲気を持つのが特徴的ですね。

 

塔は、上から下まで200以上の六角形の開口が設けられています。うち60個には3つの異なるデザインのフレームが組み合わさってできた窓がはめ込まれ、ほかは壁に埋まっています。

 

円筒状は面積効率の理由で、六角形の開口は強度上の理由から採用されたそうです。

 

残念なことに、メルニコフ邸の建つ場所が2013年に建築物を建ててはいけない緩衝地帯に指定され、取り壊しの危機にあります。現在は署名活動等による保存運動が行われているとのこと。

 
メルニコフ
 

◯絶たれた建築家生命

メルニコフは1933年にはモスクワ第7都市建築設計室主任建築士に就任しますが、前衛芸術家たちに対する当局の締め付けが厳しくなり、

 

メルニコフ自身も1937年、新聞や建築家同盟総会などでその作風が「形式主義的」だとして批判されるようになります。

 

最終的に彼は解雇され、国内での建築設計業務を事実上禁じられてしまう。建築家生命を絶たれた形となります。

 

メルニコフは運良くスターリンによる大粛清を生き延びましたが、その間は自邸に隠棲同然に暮らし、

 

1967年のモントリオール博覧会のパビリオン設計を除いて、モスクワ高等芸術技術工房(ウヴテマス)及びモスクワ構造技術大学での教職に専念。肖像画家として余生を過ごしました。

 

1965年、初の個展が開催され名誉を回復した時には既に70歳を超えていました。1972年にはソビエト連邦名誉建築家の称号を授与され、2年後の1974年に亡くなります。

 

時代の荒波に揉まれたメルニコフが実際に建築家として活躍したのはわずか十数年でしたが、それでも建築史に残る作品を創り得たのは、ひとえに彼の才能と努力の密度が高かったからではないでしょうか。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 
メルニコフ
 

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