デザイナーたちの物語 丹下健三
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
◯世界レベルの日本人建築家
今回ご紹介するデザイナーは丹下健三。
日本の建築を世界レベルに押し上げた巨匠です。
日本人ならほとんど誰もが知っている東京都庁舎。
球体の造形が特徴的なフジテレビ本社ビル。
国立代々木競技場。
東京カテドラル聖マリア大聖堂。
などなど。
彼が手掛けた名作はあまりに多い。
それらの中でも、彼の名を世界に知らしめた作品は
「広島平和記念公園」
です。
◯取り壊されかけた原爆ドーム
重要文化財の広島平和記念資料館を含む広島市平和記念公園は、丹下健三の代表作として知られています。
1949年に広島平和記念都市建設法制定に基づき、爆心地周辺である原爆ドーム(原爆投下時は広島県産業奨励館)近くのエリアを平和公園として整備する計画が進められますが、
それに先立ち、広島平和記念公園と記念館の設計コンペが開催され、そこで一等に当選したのが丹下健三でした。
他の設計案が公園だけを対象とした計画案であったのに対し、丹下の提案は広島市を東西に貫く平和大通りと直交する軸線上に慰霊碑と原爆ドームを配置するという、
一段と高い都市計画レベルの視点から組み立てたもので、そのスケールが高く評価されました。
広島の復興計画において、この市街地を十字型に貫く都市軸をデザインし、戦後の広島市の骨格を作ったのは丹下だったと言っても過言ではありません。
さらに、当時は単なる廃墟に過ぎなかった原爆ドームを、逆に都市空間の軸とし、シンボリックなランドマークとしての「原爆ドーム」を発見したのも丹下でした。
「単なる廃墟に過ぎなかった」というのは、原爆ドームは今や広島はおろか、日本を代表する記憶遺産の一つとなっていますが、
実際に原爆ドームの永久保存が広島市議会で決まるまで「原爆による惨禍の証人として保存する」意見と
「危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので取り壊す」という意見の対立があったのです。
解体される可能性が高かった原爆ドームをその軸の中心に据えるという丹下の計画は、 原爆ドームの保存にも大きな影響を与えました。
原爆で大破した公園外の原爆ドームを、公園計画の中心に据えることで、その悲惨さを後世に継承するうえでの象徴に位置付ける形となり、建築と都市の未来のあり方とを繋いだのです。
◯廃墟からの復興のシンボルとして
丹下にとって広島平和記念資料館は事実上のデビュー作でした。
丹下の設計は、平和大通から中央の陳列館 (広島平和記念資料館)を支えるピロティを抜けて、慰霊碑、原爆ドームを一直線に望む都市軸を提案したもので、
本館はピロティの上に水平に広がる展示室という構成で、これには丹下が尊敬してやまないル・コルビュジエの作風に見られる端正なモダニズムが反映されています。
資料館に連なる広島国際会議場は、日本建築の木割をイメージしたようなデザインになっており、機能的な繊細さを感じさせます。
コンクリート打放しの本館の端正なプロポーションを、ピロティで大地から持ち上げることによって焦土からの復興を力強く印象づけています。
丹下はこの案件に取り組むに当たって、コルビュジエの作品はじめ、法隆寺や厳島神社の伽藍の配置、正倉院、伊勢神宮、桂離宮など日本の伝統建築からもインスピレーションを求めました。
西洋起源のモダニズム様式と日本建築の伝統様式の融合が実現したのがこの広島平和記念公園であり、戦後の日本建築はここから始まったと言われるほど記念碑的な作品です。
丹下はこの作品をもって、モダニズム建築の世界的な発信団体であるCIAM(近代建築国際会議)に参加することとなり、その名を海外に知らしめました。
◯慰霊碑のデザインは埴輪から
広島平和記念公園に建つ慰霊碑。
この慰霊碑建設を巡ってちょっとしたドラマがありました。
丹下はこの慰霊碑の建設に日系米国人の彫刻家、イサム・ノグチを強く推しましたが、当時広島平和記念都市建設専門委員会委員長であり、丹下の師匠でもあった岸田日出刀から
「原爆を落とした当のアメリカ人の手になるもので、爆死者の慰霊になるのか」
という理由で強く反対されます。
ノグチによる慰霊碑のデザイン案は却下され、丹下自身が担当することになります。
丹下はノグチを誘った手前、彼への申し訳なさもあって、ノグチのデザインをほぼそのまま流用しながら、自身の当初の構想であった埴輪の家の屋根を造形としました。
本館ピロティの奥には慰霊碑が見え、そのさらに遠く奥に原爆ドームの姿が見える配置になっています。
人が慰霊碑に臨む時、視線の先に原爆ドームが自然と目に入るようになっているのです。
平和公園は単なる慰霊施設を超えて、「平和を創り出すための工場」であるべきだという丹下の理念が明確に反映されたデザインとなっています。
丹下は生涯にわたって「建築家としてトータルに都市をデザインすること」に情熱を持ち続けた人でした。
◯モダニズムのセンスが光る自邸
広島平和記念資料館のように、人が入る空間を持ち上げてピロティをつくる様式は、丹下自身が建てた自邸にも使われています。
1階には建物を支える柱、壁、階段があり、生活の空間はすべて2階に載せています。
ピロティは、ル・コルビュジエが提唱した「近代建築の5原則」、つまり「屋上庭園」「自由な平面」「水平横長窓」「自由な立面」と共に含まれる原則の一つである
「歩行者や車両のために開放する」ことに当たります。
丹下も住宅というプライベートな空間の真下に、社会的な空間と接続する空間をつくることを試みました。
結果、社会に広く開放する建築のあり方を彼は自邸においても実現し、1階のピロティはパーティーなどに使われ、
ピロティ前に広がる開放感溢れる庭園は近所の子どもたちの遊び場や、客人の交流の場となりました。
庭園で結婚式を挙げた丹下の弟子もおり、磯崎新もその一人です。
しかし東京世田谷に建っていたという丹下の自邸は現存していないのが、とても残念。現存していたら、私も庭園で遊ばせて頂きたいものです。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。