デザイナーたちの物語 ヴァルター・グロピウス
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
さて、今回ご紹介するのはヴァルター・グロピウス。
近代建築の四大巨匠の一人に数えられます。
工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築の教育機関「バウハウス」の創始者かつ初代校長であり、彼自身が手がけたデッサウ校舎は近代建築の記念碑的作品として知られています。
◯近代建築の四大巨匠の一人
グロピウスは1883年にドイツ・ベルリンで生まれました。叔父のマーティン・グロピウスはベルリンのクンストゲヴァーブ美術館の建築家でした。
ミュンヘンとベルリンの工科大学で建築を学んだグロピウスは、実用主義派の初期メンバーの一人である名建築家、工業デザイナーのペーター・ベーレンスの事務所に入社、
独立後、同僚のアドルフマイヤーと事務所を設立します。
グロピウスとマイヤーは、この時期に先駆的なモダニズム建築の作品を残しています。
ドイツのアルフェルト・アン・デル・ラインにあるファグスヴェルク靴工場です。
グロピウスとマイヤーが設計を担当したのはファサード(建物正面)だけでしたが、この建物のガラスカーテンウォールは形は機能を反映するというモダニズムの原則と、
労働者階級に健康的な環境を提供するという2つのアプローチが表現されています。
グロピウスにとって、この靴工場は師であるペーター・ベーレンスから独立後の最初の作品です。
ガラスカーテンウォールの造形なども、師の作品であるAEGタービン工場から引用していますが、グロピウスはそこからさらに古典主義的要素を排除し、近代的な材料や技術に基づく新たな造形のあり方を示したのです。
まさにこれからキャリアを積み上げていくように思われたグロピウスでしたが、1914年の第一次世界大戦の勃発によって中断を余儀なくされます。
彼は徴兵され、戦死しそうになりながらも、戦時中は西部戦線で少佐として活躍しました。
終戦後、キャリアを再開したグロピウスは叔父と同じく建築家の道を本格的に歩み始め、郊外集合住宅などに携わるようになります。
1934年、グロピウスは映画のプロパガンダ・フェスティバルのためにイタリアを一時的に訪問するという口実でナチスが台頭していくドイツを離れ、イギリスに亡命。
ロンドンのハムステッドにあるアーティスト・コミュニティの中で3年間生活した後、1937年にハーバード大学に招かれ、アメリカに赴きます。
そこで本コラムでも紹介しましたイオ・ミン・ペイはじめ、建築家を育て上げました。
さらに共同設計事務所TAC(The Architects Collaborative)を設立。超高層ビルのパンナムビル(現メットライフビル)などを設計しました。
◯世界のスタンダード「国際様式」
グロピウスは世界で初めて「国際建築」という様式を提唱した先駆者として有名です。
グロピウスは著書『国際建築』の中で、造形は機能に従うものであり、時間と資金を切り詰める工業社会の建築ニーズが、国を超えて、世界的に統一された様式をもたらすと主張しました。
この様式は装飾を排除し、量感よりも空間感覚を重視。大量生産に優れた工業モジュールで建築を捉えることによって、
個人や地域の特殊性を超える、世界的に共通する様式の創造を目指すアプローチです。
凸凹のない鉄筋コンクリートの立方体の建物、フラットな屋根、連続するガラスのカーテンウォールなどを用いた直線的な表現を特徴とします。
この様式がやがてモダニズム建築を代表する地位を獲得していき、今日私たちが目にする建物のほとんどがこの様式に沿っていると言っても過言ではありません。
◯世界一有名な建築学校「バウハウス」
国際様式を提唱したグロピウスは、「建築とは芸術の総合である」との理念を掲げて芸術学校「バウハウス」を開校し、後進の育成に力を注ぎます。
1915年、バウハウス前身である大公立美術工芸学校の前任校長、ヘンリー・ファン・デ・ヴェルデは退任時にグロピウスを推薦したことで、1919年にグロピウスが後任に任命された経緯があります。
創立宣言ではグロピウスは「芸術家と職人の間に本質の差はない。階級を分断する思い上がりをなくし、職人の新しい集団を作ろう!」と呼びかけました。
やがてこの学校はモダニズムの源流を作った教育機関として、世界的に有名になっていきます。
バウハウスで目指していたのは、工業的に生産された優れたデザインを通じて、すべての家庭に美しさと品質をもたらす機会を提供することでした。
無駄な装飾を廃し、合理的な機能美を追求した結果、あらゆるプロダクトの「モダン」デザインの基礎を作り上げたのです。
日用品といった小さいものから、建築という大きなものまで、デザインの合理性という様式を、それ自体が一つの様式であると意識されないほどまでに日常に浸透したのは、バウハウスによるところが大きい。
バウハウスは最初、ドイツのヴァイマルで運営されていましたが、後にデッサウに移転します。
新しいバウハウス校舎は、まさに国際様式の実例となることを意図してグロピウスによって設計されました。
「BAUHAUS」のサインが印象的なカーテンウォールの実験・工房館です。この北に工学教室館、東にアトリエ館があります。
大規模で多様な機能が抽象的な箱型の造形でまとめられており、現代の感覚で見ると特筆すべき点はありませんが、当時としては最先端の建築デザインでした。
◯タフな老鳥
アメリカ時代のグロピウスは、彼一流のこだわりを注ぎ込んだ自邸をマサチューセッツに建てています。
彼は自宅自体と周辺景観も含めて、シンプルさ、経済性、美しさを具現化すべきと考え、バウハウスで培った知見をフルに設計に活かしました。
グロピウスの家は大きな反響を呼び、国のランドマークに指定され、アメリカに国際様式をもたらす上で大きな影響を与えました。
グロピウスは1969年7月5日、マサチューセッツ州で86歳で亡くなりました。
肺炎と診断され、一旦手術が成功し全治の見込みが立ったものの、一週間後に肺のうっ血で呼吸困難に陥り、睡眠中に死亡しました。
手術が成功した後、グロピウスは自分自身のことを面白がって「タフな老鳥」と表現したそうです。
グロピウスが亡くなってから27年後の1996年に、彼が先鞭をつけたバウハウスが後世の美術芸術、美術思想、美術教育に与えた影響の大きさが評価され
「ヴァイマルとデッサウのバウハウスとその関連遺産群」として世界遺産(文化遺産)に登録されます。
実は数年前にバウハウスを見学したことがあり、圧巻の一言に尽きました。今後も機会あればぜひ再訪したいものです。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。