デザイナーたちの物語 フランク・ロイド・ライト
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
■変幻自在の建築家
本日ご紹介するのはフランク・ロイド・ライト。
20世紀の巨匠の一人と言われる、アメリカの建築家です。
彼は70年間に及ぶ現役期間で
住宅、オフィス、教会、学校、高層ビル、ホテル、美術館
など1,000以上の建築物を設計しており、人間性や環境と調和したデザインを信条とし、後にプレーリー派と呼ばれるようになる建築運動の先駆者となった人物です。
1991年にはアメリカ建築家協会から
「史上最も偉大なアメリカ人建築家」
として認められ、2019年には彼の作品の一部が世界遺産に登録されています。
活躍の期間が長かった彼の作風は時代とともに変化しています。
20世紀初めには低層で軒を深くとり、「ロビー邸」はじめ、建物内部と自が融け合う「プレーリースタイル」を確立しました。
1920年頃になると、コンクリートを用いた表現を追求し、マヤの神殿を思わせる装飾的なプロックを好んで使うようになります。
こちらはバーンズドール邸が知られています。
晩年は装飾を抑えた近代的な作風を展開させており、幾何学の美を湛えたグッゲンハイム美術館が有名ですね。
■建築センスは母親から
ライトは1867年にアメリカのウィスコンシン州の田舎で生まれました。
ウィスコンシン大学で土木工学を学びますが、その後中退し、シカゴで著名な建築家ジョセフ・ライマン・シルズビーとルイ・サリバンのもとで見習いを務めます。
彼の建築センスを最初に育てた人は実は母親でした。
先生でもあったライトの母親のアンナは、とあるイベントで幼稚園児向けの知育ブロックと出会い、そのクリエイティビティに感動した彼女はすぐさまこれを息子に買い与えます。
立方体、球体、三角形などの幾何学的な形をしたブロックは、様々な組み合わせで組み立てて立体的な作品を作ることができる代物で、
幼いライトは何年間もこのブロックに夢中になったそうです。
ブロックを遊んだ指の感触が彼の発想の全てであると、後にライトは語っています。
■自然との融合の美
彼の作風は各時期で変化していきましたが、内外空間の「流動性」や、土壌から芽生えたかのような有機性は彼の作品の変わることのない特徴でした。
この哲学を最もよく表しているのが、「アメリカ建築界の歴代最高傑作」と呼ばれている「フォーリングウォーター(落水荘)」です。
ペンシルバニア州の森の中に佇むこの建築は、流れる滝の上に建っているように設えており、美しい景色と一体になっています。
床を滝の上に張り出させ、あたかも建物の真下を滝が流れるかのように見せています。
水平性と垂直性を強調するコンクリートの折り重なりは抽象的でありながらも、平らな水面や真下に流れ落ちる滝とのドラマチックな融合が印象的であり、自然との一体感を感じさせます。
滝の上にせり出した床は、元々あった自然の岩塊で支えられており、また室内のリビングの床にはなんと自然にあった岩が入り込むよう設計され、暖炉と組み合わせがこの建築の中心となっています。
景観のみならず、構造においても自然との一体美を創り出しています。
上から下へ流れ落ちる滝、森、そして建物が一体となったこの景色は、建物へと向かうアプローチから眺めることもでき、
この風景を見せつけるような計算し尽くされた配置計画がなされていると言えます。
建築は周辺環境の一部となりうる有機的なデザインを可能にしたのは、ライトによる滝や岩の位置、樹木の種類などの詳細な観察と調査、そして自然への愛でした。
■幾何学的な美術館
ニューヨーク市にあるソロモン・R・グッゲンハイム美術館は、数ある彼の作品の中で最も有名な作品の一つに数えられます。
建物は五番街の敷地から暖かみのあるベージュ色の螺旋状に上昇し、その内部は貝殻の内部に似ています。
来館者がエレベーターで最上階に上がり、ゆっくりと下降する中央の螺旋状のスロープを歩いて作品を鑑賞するユニークな動線となっています。
外形の螺旋状とともに、室内の床には円形の形状と三角形の照明器具が埋め込まれており、構造の幾何学的な美しさを強調しています。
■帝国ホテル「ライト館」の設計者
ライトは日本にも作品を残しています。
その代表作が帝国ホテルの旧本館です。
初代帝国ホテルは外国からの来賓を招くホテルとして、ドイツで建築を学び帰国したばかりの若手建築家、渡辺譲によって1890年に建てられました。
1914年頃から新館建設の話が進み、設計者に選ばれたのがライトでした。
ライトは使用する石材から調度品に使う木材の選定に至るまで、徹底した管理体制でこれに臨みました。
鷲が翼を広げたような巨大なホテルは、10のブロックを繋ぎ合わせた構造になっており、建物全体に柔軟性を持たせるとともに、一部に倒壊があっても全体には累を及ぼさない仕組みになっていました。
また、大規模ホテルとしては世界で初めて全館にスチーム暖房を採用するなど、耐震と防火に配慮した設計がなされました。
ライトはさらに仕上材に大谷石を使うことを提案します。
大谷石は北関東に産出する凝灰岩で、やわらかく加工しやすい反面、水に弱く風化しやすい。
一般的には安価な材で塀などに使われることが多かったようです。
ライトは大谷石の加工性のよさと柔らかな風合いに着目し、外装と内装のメイン素材に使用することにしました。
しかしホテル側からは安価な素材を外国高官などVIPが宿泊するホテルに使うことを反対されます。
それに対しライトは「素材の貴賤はない」と主張し、大谷の石工たちの高い技術を活かしたアールデコ調の装飾を施し、美しい外観と独自な内部空間のホテルを打ち出しました。
しかし、ライトのこうした完璧主義は大幅な予算オーバーを引き起こします。
初代の帝国ホテルが1914年に失火で全焼すると、新館の早期完成は急務となり、一方で設計の変更を繰り返すライトとホテル側との衝突は避けられず、
当初予算150万円が6倍の900万円に膨れ上がるに至って、ライトは外され、精魂注いだ帝国ホテルの完成を見ることなく日本を離れることになります。
帝国ホテルはその後、ライトの日本での一番弟子だった遠藤新の指揮のもと建設が続けられ、着工以来4年の歳月を経て1923年に完成しました。
その落成記念披露宴の準備中に、なんと関東大震災が東京を襲います。
周辺の多くの建物が倒壊したり火災に見舞われたりする中で、小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変わらぬ勇姿を見せていたライトの帝国ホテルは一際人々の目を引いたと言われています。
戦後、地盤沈下や老朽化、客室数の少なさにより新館は1967年に惜しまれつつも解体され、玄関部分は愛知県にある博物館明治村に移築されています。
自然と幾何学の間を遊ぶ変幻自在な建築家。いつか見てみたいものですね。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。