イヴ・サンローラン
貸しビル業は本質的には空間プロデュース業。
空間に価値を認めて頂いて、お金を頂く仕事です。
そんな貸しビルを経営している身ですから、建築やインテリアなどデザイン全般に浅く広く興味を持っています。
自分なりにアンテナを張って、そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)の空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既成の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものです。
今回もそんな天才デザイナーの一人をご紹介します。
■ディオールが認めた若き天才
イヴ・サン=ローラン(Yves Saint-Laurent)
20世紀のフランスファッション界の革命児であり、高級ファッションブランド「YSL」の創始者です。
イヴは1936年、フランス領アルジェリアで生まれました。
その後パリに引っ越し、17歳の時にファッションデザイナー養成校に入学します。
学校主催のデザインコンクールのドレス部門ではカクテルドレスを発表し、最優秀賞を受賞するなど、この時から才能の片鱗を覗かせていました。
実はこの時の審査員の中に、あのファション雑誌の権威『VOGUE』のディレクター、ミッシェル・デブリュノフがいました。
彼はこの無名の少年の作品から驚くべき革新性を感じ取り、すぐクリスチャン・ディオールに紹介したそうです。
そう、あのクリスチャン・ディオールの創始者です。
当時のディオールはパリのオートクチュール(オーダメイド高級服)界の頂点に君臨していました。
そんな重鎮の目にイヴのデザインが留まり、強い感銘を与えます。
こうしてイヴは学校を卒業するや否やディオールに入社し、ディオールの跡継ぎとして経験を積むことになったのです。
ディオールのイヴの才能に対する信頼は絶対的でした。
ある時、ディオールは自身のスタッフたちに
「ここにある30のデザインはイヴの仕事に基づく私の最新のデザインだ。彼は特別な才能。私は彼に認められたい」
「次のコレクションでイヴを連れ出す」
とまで言ったそうです。
しかし、ディオールはまもなく休暇先のイタリアで急死。魚の骨をのどに詰まらせた後の心臓発作だったと言われています。
創業者亡き後のディオールブランドは破滅の危機に立たされていました。
財政状況も芳しくなかったようです。
そこに白羽の矢が立てられたのがイヴでした。
■最初の革命は「台形」
若干21歳でディオールブランドのチーフデザイナーとなったイヴにとって、ブランド承継の重圧は凄まじいものでした。
チーフデザイナー就任後初のコレクションが迫る。
ブランドの生命力と自身の存在価値が試される場であり、ここでコケるとディオールブランドはもはやブランドでなくなってしまう。
この試練に対して若き天才が出した答えは
「トラペーズ・ライン」
でした。
トラペーズとはフランス語で「台形」を意味します。
アルファベットのAの形状に似て、肩の位置では狭く、裾に向かって広がっていき、膝までカバーするシルエットです。
ゆったりとしたシルエットに、女性の優しさと柔らかさが絶妙に表現され、かつディオールらしい厳格さを失わない。
半世紀前のデザインなのに、今見ても色あせない美しさを湛えています。
デザイナー交代後最初のコレクションは見事大成功。
イヴはディオールの再来と絶賛され、新聞はその日一番大きな見出しに「イヴ・サンローランはフランスを救った。偉大なるディオールの伝統は続く!」と書き立てました。
当時ディオールの顧客のほとんどは、細く絞った腰とゆったりしたフレアスカートを特徴とする「ニュー・ルック」ファッションを好む中高年で、若者には敬遠されていました。
しかし品格とカジュアルさを兼ね備えたイヴのトラペーズ・ラインは若者からも注目を浴び、顧客層として取り入れることに成功したのです。
トラペーズ・ラインは現在のマタニティードレスの原型にもなりました。
ディオールの跡を引き継ぎ、非凡な才能を以って鮮烈なデビューを飾ったイヴでしたが、革新に溢れた彼のファッション感覚に対しディオール社の幹部たちは難色を示すようになります。
才能への危険視や嫉妬も、恐らくあったかもしれません。
■従軍、そしてトラウマ
トラペーズ・ラインでパリファッション界を席捲し、順風満帆かに見えたイヴでしたが、翌年以降発表したファッションは立て続けに大不評。
さらに不幸なことに、イヴはアルジェリア独立戦争で戦っていたフランス軍に徴兵されてしまいます。
この徴兵は当時のディオールのトップであり、右翼でもあったマルセル・ブサックの意向が働いたと言われています。
生まれ育ったアルジェリアと、祖国であるフランスとの戦争にイヴは心を傷め、
さらにゲイである彼は隊内でもイジメにあい、従軍後20日にして精神病院に収容させられ、電気ショックといった過酷な治療で心身をすり減らしていきました。
このため後年仕事に復帰したイヴが、キャリアの長い期間にわたって薬物やアルコール依存、鬱で苦しむようになります。
■YSL創業
廃人同然となって帰還したイヴを、マルセル・ブサックは無慈悲にも解雇してしまう。
逆にこれがきっかけでイヴは独立します。
1960年、イヴは著名な企業家であり、恋人でもあったピエール・ベルジュと共に自身のブランド『イヴ・サンローラン(YSL)』を立ち上げ、活動を開始。
1989年、ファッションブランドとしては初となる、パリ証券取引所で株式を公開。
2001年には、フランスのジャック・シラク大統領から、2007年はニコラ・サルコジ大統領からレジオン・ド・ヌール勲章を授与されます。
彼のオートクチュールやプレタポルテ(既製服)は上流階級に絶大な人気を得ていました。
2002年のコレクションを最後に引退し、2008年6月1日、ガンのため逝去。
パリファッション界を牽引し続けた71年間でした。
告別式にはサルコジ大統領夫妻ら800人が参列し、世界中のマスコミで報じられました。
■禁断の女性ファッション・パンツルック
イヴは引退の2002年までに数多くのオートクチュールを発表しました。
その中でトラペーズ・ラインと並ぶ有名な作品が
「スモーキング」
です。
原語の「Les Smokings」はフランス語で「タキシード」を意味します。つまりパンツルックです。
女性のパンツルックはシャネルなどによって既に発表していましたが、女性の日常着としてまだ市民権を得ておらず、
ここにイヴは女性のためのタキシードスタイルを打ち出したのです。
タキシードは男性だけの正装ではない。
女性もまた、男性が身につけるファッションと同じものを着られるようにしたいというイヴの挑戦でした。
このコレクションではタキシードはよりフェミニンな色合いとシルエットで仕上げられ、女性がフォーマルな場でも着られるパンツルックがデザインされました。
今日の女性がパンツスーツを普通に着られるようになったのはイヴのお陰と言っても過言ではありません。
というのも当時では、パンツスーツはまだ女性の服装ではなく、
パンツに身を包む女性はレズビアンだと見られ、女性がパンツルックでレストランに行っても入店を断られることもあったという。
イヴは女性の自由な生き方を服に反映し、ファッションを通じて世界中の女性に力を与えたのです。
彼の生涯は、本物のアーティストとは新しい文化の楔を世界に打ち込む存在であると私たちに教えてくれますね。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。