医療の歴史・麻酔
今日のように、病原菌を遺伝子レベルで把握し、ワクチンや抗生物質、薬や手術の開発ができるようになるまでに、それこそ神頼みの時代から長い年月にわたる試行錯誤がありました。
前にご紹介した水銀しかり、ヒ素しかり、今の常識では考えられないような医療が有効だと信じられていたケースも過去にはありました。
そうした先人たちの悪戦苦闘の積み重ねが、今日の最新医療を成す土台になっているに違いありませんが、それにしてもびっくりを通り越して笑ってしまうような医療がたくさんあります。
今回は引き続きそうしたびっくり仰天な医療の歴史をご紹介していきたいと思います。
■人類レベルの苦悩・痛み
今回ご紹介するのは「麻酔」。
人類に莫大な恩恵をもたらした医術です。
その目的はただ一つ「痛みの軽減・解消」です。
もし麻酔がなければ私たちは壮絶な痛みに耐えながら手術を受けなくてはいけません。
手術のスムーズな進行に大きな支障をきたすだけでなく、下手すると患者はショック死や心理的外傷を負ってしまい、あるいは初めから手術そのものを拒否するでしょう。
いくら手術で健康体になれると言っても、激痛は避けられないとなると、誰しも迷ってしまいますよね。
麻酔があるおかげで人類は医療行為として外科手術をより選択しやすくなったのです。
痛みという人類の根本的な悩みを解消し、外科手術の普及、発展を大いに促進した麻酔ですが、これまで紹介した様々な医療と同様、その歴史は試行錯誤そのものでした。
■とりあえず首シメましょう!
「Anesthesia (麻酔)」の語源は、ギリシャ語の「an + aesthesia」で「感覚がない」を意味します。
感覚、この場合は痛覚ですが、それの解消には薬物を用いることが今日では当たり前となっていますが、実は薬物を用いない麻酔の方の歴史も長い。
例えば氷を用いた低体温法、催眠術、電気麻酔、針麻酔などがありました。
中でも最も原始的な方法は至って単純、「首をシメたり、頭を殴ったりして意識を失わせること」でした。
それから、人間に実用されたかは不明ですが、二酸化炭素中毒で意識を失わせる方法も研究され、
19世紀のイギリスの医師、ヘンリー・ヒル・ヒックマンは犬を使って仮死状態を確かめる動物実験を繰り返し行っていました。
具体的には二酸化炭素を犬に吸い込ませて酸欠状態に陥らせ、意識を失わせた後に片耳を削いで痛みを感じるか実験するというものでした。
犬は全く痛みを感じなかったと言います。もっとも、意識を失うよりも先に窒息で死んだ犬の方が多かったようですが・・・。
■薬草の登場
薬草を用いた麻酔の歴史も古く、紀元前にまで遡ります。
以前のコラムでもご紹介しましたが、アヘンと大麻は最も重要な薬草として古代エジプトなどで利用されてきました。
古代ギリシャの医師、ディオスコリデスは、マンドラゴラという毒性の強い植物をワインに入れて飲むことを勧めていたそうです。
中世になると「海綿睡眠剤」という手法が登場、これはマンドラゴラ、ヒヨス、ドクニンジン、アヘンを染み込ませた海綿を患者に吸わせるという方法でした。
中でもアルコールは古代メソポタミアから使われたきた最も古くから知られている麻酔薬、もとい鎮痛薬でした。
ただ手術の場合、手術中に患者が目覚めないようにするには、人体に有害になるほど大量に使わなければならなかったのがネックでした。
インカ文明では酒にコカを加えて使用し、さらに中国では後漢末期に医師、華佗が「麻沸散」なる麻酔を使い、手術を行ったと『三國志』に記録されています。
麻沸散の成分は不明ですが、大麻を使ったものではないかといわれています。
■笑うガスの発見
近代になって麻酔薬の開発が進みます。
麻酔効果が期待されたものの一つが亜酸化窒素、いわゆる笑気ガスです。
これは今日の医療では必須の医薬品となっていますが、どちらかと言えば元々は快楽目的のドラッグとして重宝されていました。
実際にはちゃんとした麻酔作用があり、1795年にイギリスの化学者、ハンフリー・デービーにより証明され、医療としての用途が見出されました。
その証明の仕方も破天荒なもので、色んな気体を片っ端から吸ってみるというセリフ人体実験!
彼は笑気ガスを吸うと歯の痛みがなくなること、ワインを飲んだ後に笑気ガスを5リットル(!)ほど吸い込むと吐き気を催すことに気づきました。
本当に、チャレンジャーなスピリットを持った人にしかできない壮挙ならぬ、暴挙ですな・・・。
凡人の私には無理です。
後年、アメリカでもホーレス・ウェルズという歯科医師が笑気ガスを使った無痛の抜歯手術を研究するようになります。
実験ではある程度のところまで成功したようですが、公開手術で患者に激痛を与えてしまい、失敗。業界からの信用も失って、不幸な後半生を送った人物として知られています。
■諸刃の剣な麻酔薬
硫酸エーテル(ジエチルエーテル)も麻酔薬の有力候補でした。
「エチルエーテル」「エーテル」とも呼ばれ、16世紀には既に生成法が発見されるのですが、19世紀半ばになってようやく麻酔薬として使えることが判明します。
これまたアメリカの歯科医師、ウィリアム・T・G・モートンが患者の歯茎にエーテルを数滴たらしたところ、その箇所の感覚が麻痺したことを発見します。
後に彼はエーテルを麻酔として用いた腫瘍切除手術を行い、成功します。
こうしてエーテルの有用性が広く知られるようになりました。
ただしエーテルには欠点もありした。引火性が高く、吐き気や嘔吐、肺の炎症を引き起こし、そして依存性が高かったのです。
笑気ガスと同じように酩酊と興奮を催すドラッグとして乱用され、時には死者が出ることもあったそうです。
エーテルと並んで、クロロホルムの研究も急速に進みました。
クロロホルムはエーテルと異なり常温で引火せず、扱いやすいと考えられていました。
スコットランドの医師、ジェームズ・シンプソンはクロロホルムには意識を失わせる効果があることを発見し、これを無痛分娩の手術に用い、成功します。
クロロホルムの使用が広がり、また咳止め薬はじめ、様々な薬の調合にも利用されるようになります。
が、クロロホルムって、猛毒なんですよね。
肝臓、腎臓に極めて有害であるだけでなく、心不全、不整脈、呼吸不全を引き起こします。患者の突然死が相次いだため、間もなく医療現場から姿を消していくのでした。
■全身麻酔は日本から
麻酔には手術する部位だけを麻酔する局所麻酔と、全身を麻酔する全身麻酔があります。
この最も強力なのは全身麻酔で、麻酔の間患者は完全に意識を失い、医者はあらゆる部位の手術を行うことが可能となります。
そしてこの全身麻酔手術を世界で最初に成功したのは、なんと日本の医師なんですね。
江戸時代に外科医であった華岡青洲は乳がんといった大掛かりな外科手術を行うにはどうしても全身麻酔が必要と考え、麻酔の研究を始めます。
彼はチョウセンアサガオ、トリカブト、トウキといった薬草に麻酔効果があることを発見し、研究を経て全身麻酔薬「通仙散」を完成させます。
1804年、青洲は60歳の乳がん患者に対して通仙散による全身麻酔を施した上で手術を実施、見事に乳がんの摘出に成功します。
これははっきりした記録が残っている世界最初の全身麻酔手術です。
ただこの業績の裏には犠牲もありました。
通仙散の開発に当たり、青洲の母と妻の妹が実験台になることを申し出て、数回にわたる人体実験の末、母は死に、妻の妹は失明してしまいます。
1952年に、世界人類に貢献した外科医師の一人として、青洲のはアメリカのシカゴにある国際外科学会付属の栄誉館に祀られました。
麻酔は今や医療になくてはならない縁の下の力持ちとも言うべき存在。
麻酔医が専門職として置かれているのはそのためです。直接病気や怪我を治す医療だけが医療ではないんですね。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)でした。