杉原千畝氏・日本が誇る偉人の中の偉人

エストニアの事業に関わっていた際に何度もエストニアやドイツに飛び、

 

現地の方々や在住の日本人の方も含めて一緒に仕事させて頂きました。

 
エストニア旧市街
 

そうした中で実感したことの一つは、ポーランド系ユダヤ人難民のために「命のビザ」を発行した

 

杉原千畝

 

の存在がいかに大きいかでした。

 
杉原千畝
 

「日本は第二次世界大戦中、枢軸国として連合国と戦って敗けたにも関わらず、今日の日本人がエストニア、ないしヨーロッパでの様々な場面で友好をもって迎えられ、

 

特に各国に散らばるユダヤ人から親日感を寄せられているのは、ほぼ杉原千畝のおかげと言っていい」

 

そのような言葉を何度も現地で耳にしました。

 

私は恥ずかしながら、杉原千畝ほどの偉人がいたのをそれまで殆ど知らなかったのです・・・。

 

杉原はリトアニアのカウナス領事館に赴任していました。

 

第二次世界大戦勃発直前です。

 

そこでドイツ占領下のポーランドから多くのユダヤ系難民がリトアニアに逃亡してきて、

 

戦乱から逃れるためのビザを得ようと各国の領事館・大使館に押し寄せました。

 

当時リトアニアはソ連軍に占領されており、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めていた状況下にあったのですが、

 

日本領事館だけはまだ業務を続けていたので、難民たちはそこへ殺到したのです。

 

彼らに対し杉原は来る日も来る日も日本への通過ビザを発給し、出発直前の列車の中でもビザを書き続けました。

 
杉原千畝3
 

「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給したのです。

 

発給数は2000にも6000にも上ったと言われています。

 

しかし、彼の発給行為は本国外務省の訓令に重く違反しており、このために後年に職位を追われてしまう。

 

避難民の一部は最終的にエストニアに逃れていたため、杉原の気高い行いは同国でも語り継がれていると聞きます。

 

日本にいるとなかなか実感しにくいですが、私たちの多くは先人が遺した恩恵に浴しているという有り難い事実をもっと噛みしめるべきかもしれません。

 

以上、大禅ビル(福岡市 赤坂 貸事務所)からでした。

 

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