疫病の歴史・ハンセン病

前回に引き続き、人類と疫病の歴史についてご紹介していきたいと思います。

 

今回取り上げるのは

 

「ハンセン病」

 

です。

 

本コラムでは今までペスト、結核、梅毒を扱って参りましたが、このハンセン病は人類の歴史の中において、最も根深い恐怖と嫌悪に根ざした疫病と言えます。

 

■ハンセン病はどこからやって来たのか?

ハンセン病は、紀元前2400年頃の古代エジプトのパピルスには既に記録されています。

 

ペルシアでは紀元前6世紀に知られ、ローマやインド、中国の書物にも記載されています。

 

ハンセン病はもともと熱帯地方の疫病でしたが、ヨーロッパで大流行のきっかけとなったのがおそらく十字軍による大移動だったと言われています。

 
十字軍2
 

東方からの帰還兵によってヨーロッパに運ばれたようです。

 

流行は13世紀にピークに達し、その後は急速に勢いが衰えていきました。

 

■ハンセン病は皮膚病の一種

ハンセン病はらい菌 (Mycobacterium leprae) の皮膚細胞や末梢神経の細胞内に寄生して引き起こされる慢性感染症です。

 

皮膚に白い斑があらわれ、神経麻痺を起こし、腫れあがってくる。

 

さらに進行すると、皮膚が崩れて潰揚となって、鼻・喉・目などが冒され、内臓や骨にまで及びます。

 

病名は、1873年にらい菌を発見したノルウェーの医師、アルマウェル・ハンセンに由来します。

 

 

梅毒同様に潜伏期間は長く、数年から20数年にわたっていたので、伝染経路がつかみづらかった。接触の多い家族同士での伝染が多かったことから、昔は遺伝病と誤解されていたようです。

 

実際の感染経路としては鼻や気道からのものが主で、らい菌保有者の鼻汁や体液が感染源になります。

 

今日では治療法、手術法が確立され、重症者でも全治できるようになりました。

 

とは言え、らい菌は目下流行りのコロナよりも感染力は段違いに弱く、たとえハンセン病患者と接触しても、感染が高い確率で成立するわけではありません。

 

一度感染すれば免疫が形成されて、殆どが免疫で感染・発症を防げるからです。

 

逆に言えば人類が一度でも大流行を経れば感染率が下がっていくわけです。

 

■なぜハンセン病患者は嫌悪されたのか?

ハンセン病とセットで語られるのは差別と迫害の歴史です。

 

伝染力は決して強くはなく、致死性もない病気なのに、なぜか?

 

その理由の殆どは

 

「見た目の醜さ」

 

でした。

 
ハンセン病
 

重症者の皮膚が爛れていく形相に人々は恐怖とともに、嫌悪感を抱きました。

 

中世ヨーロッパでハンセン病が蔓延し始めた時は反応が強烈でした。

 

さらに治療法もなく、不治の病とされていたのもそれに拍車をかけたのです。

 

ハンセン病患者に対処する唯一の方法、それは

 

「隔離」

 

でした。

 

教会主導のもと、ハンセン病患者を神罰受けし者、制裁を加えるべき異端者として一般社会から隔離したのです。

 

教会が隔離措置の根拠としたのが旧約聖書の「レビ記」でした。

 

時代にして紀元前1300年頃の記載で、そこには当時も存在したハンセン病患者に対する対処の規定が綿密に書かれていました。

 

簡単に言うと

 

「彼らを汚れた者として扱い、離れて住まわせなければならない」

 

です。

 

現代だと非人道的な誹りが免れない対処ですが、今ほど治安もインフラもよくなかった当時の感覚で言うと共同体の保全にとても神経を使わないといけなかったので、

 

醜い不治の病を患う者たちは共同体の安定を脅かす忌避すべき存在だったのでしょう。

 

だから排除せねばならなかったというシビアな現実がそこにあったのです。

 

それが共同体の守るべき教義として宗教体系に組み込まれ、2000年を経たヨーロッパでも同じルールが適用されたのです。

 
ハンセン病7
 

757年にフランク王ピピン、789年にカール大帝がハンセン病患者に関する勅令を公布しました。

 

そこではハンセン病患者から市民権を剥奪し、市外の定められた場所に隔離するというものでした。

 

こうしてハンセン病患者は人間社会から追放され、レプロサリウム(収容所)の中で死ぬまで生きることになります。

 

その時、彼らに送られる言葉があります。

 

「あなたがたは罪を犯した、だから神さまがあなた方を辛い目にお会わせになる。

 

感謝しなければならない。

 

感謝すれば感謝するだけ、あの世の苦しみは減るのだから。

 

諦めるがよい。苦しむがよい。死ぬがよい。

 

ローマ教会は死者たちにかならず祈りをあげよう。」

 

■戦国武将・大谷吉継の「業病」

ハンセン病を患った日本の有名人に、ご存知の方もいるかもしれませんが、豊臣秀吉の配下だった戦国武将

 

「大谷吉継」

 

です。

 
大谷吉継
 

吉継は顔が爛れ、「業病」に患っていたと伝えられています。

 

「前世の罪深さの報いとして患う病気」だとしてこのように呼ばれ、ハンセン病だった可能性が高い。

 

とある逸話では、茶会に招かれた武将たちは一口ずつ飲んで次の者に茶を渡して回し飲みを始めるが、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌がって飲むふりをするだけでした。

 

しかし石田三成だけはその茶を飲んだとされます。

 

信憑性が微妙なお話ですが、二人の間で結ばれた固い友情を表す逸話として伝わっています。

 

吉継は関ヶ原の戦いでは東軍に有利と思いつつも、三成との友情に報いるために西軍につき、最後は自刃して果てたという。

 

■流浪者になったハンセン病患者

全てのハンセン病患者が収容されていたわけではなく、取り締りから漏れた患者で浮浪者と化す者も多くいました。

 

そこで収容所外のハンセン病患者にも厳しい規定が課せられました。

 

まずハンセン病患者は遠くからでも一目でわかるような目立つ服装をしなければ
なりません。

 

一般人が近づいたら、ガラガラを鳴らすか、笛を吹くか、拍子木を叩くかして自分がいることを知らせなければいけません。

 
ハンセン病7
 

売り物には手で直接触ってはならず、杖でしか触ってはいけない。

 

風上にいる者以外とは喋ってはいけない、狭い路地に入ってはいけない、教会に入ってはいけない、ほかの人がいる時はどんな屋内に入ってもいけない。

 

どんな集会にも出てはいけない。

 

泉の水で手を洗ってはいけない。水を飲む時は容器で水を飲まなければいけない。

 

屋外は裸足で歩いてはいけない。

 

橋を渡る時は、手袋をはめるまえに手すりに触ってはいけない。

 

子どもや若者に触ってはいけない、一般人たちと一緒に飲食してはいけない。

 

そして死んだ時は教会の墓地に埋葬してはいけない。

 
ハンセン病7
 

ハンセン病患者に対する主な措置をまとめると

 

・現社会からの追放

 

・市民権、相続権の剥奪

 

・結婚の禁止

 

・家族との分離、離婚の許可

 

・就業禁止、退職の促進

 

・立ち入り禁止などの行動規制

 

でした。

 

これがもととなり、差別と偏見が拡大されます。

 

ただ一部では救済活動も行われており、フランチェスコ会やハンガリーの聖女エリーザベト、ラザロ看護騎士団などが有名です。

 

■ハンセン病を終わらせたペスト大流行

十字軍の活動が最も活発だった13世紀がハンセン病蔓延の最盛期で、14世紀前半には勢いが弱まっていきました。

 

隔離策の効果があったという説もありますが、本コラムでも紹介しましたペストの大流行によってハンセン病患者も含めて病死し、結果的にハンセン病の流行を止めたとも言われています。

 
ペスト
 

以降多くの収容所が閉鎖され、15世紀になりますとヨーロッパで最大の死者を出したペストの存在が一気に目立つようになり、ハンセン病は珍しい病気となりました。

 

ただし差別と偏見に関しては、昭和日本におけるハンセン病患者に対する強制隔離政策の歴史が示すように、近代まで続いたのです。

 

以上、大禅ビル(福岡市 天神 賃貸オフィス)からでした。

 

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