疫病の歴史・結核
前回に引き続き、人類と疫病の歴史についてご紹介していきたいと思います。
今回取り上げるのは
「結核」
です。
人類最古の疫病の一つと言われています。
■ヴィーナスは結核?
美術の教科書に必ず載っている絵
『ヴィーナスの誕生』
ルネッサンス時代のイタリアの画家、サンドロ・ボッティチェリの作品で、言わずと知れた世界的な名作です。
このヴィーナスのモデルとなったのはシモネッタ・ヴェスプッチという女性なのですが、絵に描かれたシモネッタの
「ほっそりしたなで肩」
「首の細長さ」
「くぼんだ頬」
という容姿からは肺結核の徴候が指摘されています。
実際彼女はボッティチェリと出会ってわずか1年後に結核で亡くなっています。16歳でした。
ボッティチェッリが『ヴィーナスの誕生』を完成させたのは、それから9年後のことです。
■結核で命を落とした有名人たち
結核で落命した有名人は多い。中世ヨーロッパだけでもフランスの科学者デカルト、啓蒙思想家のヴォルテール、ルソー、
哲学者のスピノザ、ロック、カント、さらにルイ15世に寵愛されたポンパドール夫人、ナポレオン・ボナパルトなどなど。
王族・貴族らの罹患が目立つのは、結核は空気感染であるため、閉鎖空間である宮殿やサロンなどでの社交生活を主な活動としていた上流階級の人たちに罹りやすかったと言われています。
日本だと高杉晋作や沖田総司などが結核で亡くなっていますね。
■結核の歴史は紀元前から
紀元前5000年頃の先史時代人の人骨にも結核の痕跡が認められています。
エジプト第21王朝(紀元前1000年頃)のミイラから背骨の胸椎と腰椎の一部に、結核が原因で骨が溶解・癒合する病気「脊椎カリエス」の症状が見られています。
同様の症状は中国の上海で出土した紀元前3000年前の女性人骨でも認められています。
それから紀元前1000年以前のインドのヴェーダ時代、紀元前400年頃の古代ギリシャ時代にも結核についての記録があります。
古代ギリシャでは医師のヒポクラテス、哲学者のアリストテレスが結核について言及しています。
■結核ってそもそもどんな病気?
結核は主に結核菌 (Mycobacterium tuberculosis) により引き起こされる感染症です。
空気感染が殆どで、肺などの呼吸器官での発症が目立ちますが、中枢神経、リンパ組織、泌尿生殖器、骨、関節などにも感染し、発症は全身に及びます。
結核菌は様々な器官において宿主の細胞に寄生します。
これに対して宿主の免疫システムが反応し攻撃するわけですが、宿主細胞ごと排除しようとするため、器官の組織そのものが免疫によって破壊されてしまうわけです。
特に結核菌で厄介なのは、人体の防衛機構を成す主要な免疫細胞の一つであるマクロファージの中でも繁殖できる点ですね。
大半は感染しても無症状ですが、約10分の1は最終的に発症し、治療を行わない場合は重篤に陥り、激しい肺出血とそれに伴う喀血により発症者の約半分が死亡に至ります。
症状としては全身倦怠感、食欲不振、体重減少、37℃前後の微熱が長期間にわたって続きます。
咳が頻繁になり、血痰を伴うことも。抗菌剤による治療法が確立する以前は「不治の病」と呼ばれていました。
■白いペスト
ただ、結核が「白いペスト」として恐れられ、本格的に人類を脅かすようになったのは19世紀のヨーロッパにおいてでした。
まさに産業革命の時期で、特に劣悪な環境下で労働に従事した貧民階級を中心に流行したのです。
産業革命の開始とともに、大量の人口が農村地帯から産業地帯へ移動しました。
急激な人口密度増による都市化が進み、労働者たちは凄まじい労働と生活条件の中に投げ出されます。
当時ロンドンのスラム街の惨状を目にした思想家・エンゲルスは、
「腐りかけた小屋」
という風に形容しました。
周囲を工場に囲まれた一区画に約4000人の人々がぎゅうぎゅう状態で生活し、衛生状態は最悪。
排水溝はなく糞尿は垂れ流し、ゴミは散乱。汚物から発散されるガスと、工場から排出される黒煙が混じった空気が漂う。
もちろんまともな食べ物を口にできる者は殆どおらず、飢え死にする者、不潔と栄養不良で衰弱して病気にかかって死ぬ者は数え切れなかったといいます。
死んだ者の遺体は、すでに白骨でいっぱいになった泥沼にまるで動物のように投げ込まれました。
エンゲルス曰く
「ごみの山や水たまりのなかでのうのうとしている豚のようである」
であったと。
工場でも、今のような人命第一の環境とはほど遠い。
木綿や亜麻の紡績工場ではたくさん飛び散っている糸くずを労働者が吸い込み、喀血、呼吸困難、胸部の痛み、咳、不眠症、喘息を引き起こし、最終的に肺結核になってしまう人が後を絶たない。
特に不健康なのは亜麻糸の湿式紡績で、糸くずを含んだ水が紡錘から体に飛び散るので、服の前面はずっと濡れっぱなしで、
床にも溜まっているので、結果そうした工場で呼吸器病にかからなかった労働者はほぼいなかったそうです。
繊維業以外の工場でも事情は同じ。
金属工場では、鉄の塵を吸いこんで肺結核になった研磨工は多く、彼らの顔色は黄土色になり、声はしわがれ、激しく咳き込む。吐き出した痰は繊維の塊だったという。
製陶業の労働者は細かい珪石の塵を吸い込み、息切れを起こす。喉が傷つけられ、尽く肺病で早死にしたようです。
鉱山労働者に関しては「大多数の者が40歳から50歳の寿命で死亡する・・・79人の坑夫は、その平均寿命は45歳であったが、そのうち37人は肺病、6人は喘息で死んでいる」
という医師の証言も残っています。
窒息するような工場で働かされたのは大人だけではありません。
子どもも当然のごとくいました。
例えばレース編みの少女は、風通しの悪いじめじめした部屋でずっと座り、レース編みの上にかがみこみながらずっと作業をしていました。
いびつな体勢と劣悪な環境での仕事が長時間続いた結果、消化不良、食欲不振、やつれ、骨の痛み、息切れ、呼吸困難を起こし、
最終的には結核などの肺病を患い一生を終えるのでした。
産業革命よって誕生した黒煙地帯=都市スラムが、近代における結核蔓延の震源となったのです。
労働者の子どもの57%以上が5歳未満で死亡していたため、平均寿命が15歳という驚くべき状況でした。
■BCGワクチンを日本にもたらした志賀潔
いま日本では結核予防策としてBCGワクチン接種が行われています。皆さんのよく知っているあの9本針の「はんこ注射」ですね。
20世紀初頭、フランスのパスツール研究所の研究者であったアルベール・カルメットとカミーユ・ゲランが、ウシの結核菌をもとに弱毒化ワクチンの作製に成功。
菌をシャーレで増やし、一部を別のシャーレに移して増やす・・・という、気が遠くなる「継代培養」という作業を13年間にわたって231回繰り返しました。
これによって毒性を弱め、ヒトに対してほぼ無害なものを作ることができたのです。
この菌を、赤痢菌研究における第一人者だった細菌学者・志賀潔が1924年に直接カルメットから分けてもらい日本に持ち込みます。
そして1942年に日本でも集団接種が始まり、今に至るわけです。
ただ、残念ながら結核は根治されたとは言い難い状況です。抗菌剤が効かない、多量投与でも効かない耐性タイプの結核菌が現れたからです。
いまも世界人口の3分の1が結核菌に感染しており、日本では2000年以降も毎年新たに2万人程度が発症し、2016年は約18000人が新たに罹患し、約1900人が死亡しました。
現在進行形で人類が対峙を迫られている古代から続く疫病の一つです。
以上、大禅ビル(福岡市 天神 賃貸オフィス)からでした。