疫病の歴史・コレラ
新型コロナウイルスの流行は未だ予断を許さない状況です。
新たにヨーロッパで感染が拡大していますね。
株価や原油価格の下落といった経済的な影響も表れ、無視できないレベルにまで達しつつあります。
早く、着実に収束して欲しいものです。
さて、このようなご時世ですので、今回から当コラムでは人類と疫病の歴史についてご紹介していければと思います。
■コロナを凌ぐ「コレラ」の猛威
明治末期、日本の平均寿命はわずかに40歳半ばでした。
今の約半分の長さです。1996年になってやっと平均寿命が80歳に達します。
「人生80年時代」と言われるようになるのは実に平成の世になってからです。
幕末から明治にかけては日本近代化の曙と呼ばれた時期ですが、
増えゆく海外との交流の波に乗って、疫病もやってくるのが近代化の知られざる側面の一つです。
もちろんこれは日本に限りません。
世界が繋がっていく過程で疫病もまたその活動の空間を広げたのです。
痘瘡、赤痢、結核、腸チフス、ペスト、梅毒などなど。
そうした数ある伝染病の中で、特に「コレラ」は人類が経験してきた歴史的な疫病の中でもっとも新しく、かつ強力な敵でした。
■コレラの歴史
もともとコレラはインドのガンジス川流域で流行していた風土病の一種でした。
それが19世紀になってイギリスによる植民地化などでインドがグローバルネットワークに組み入れられ、そこで人的交流が進み、
コレラが世界に輸出されたとされています。
起源については確たる記録は残ってないようで、7世紀の中国にコレラの症状と思しき記録があります。
世界を一周したバスコ・ダ・ガマの記録によってコレラの存在はヨーロッパに初めて伝えられたみたいです。
疫病のパンデミックは近代化と表裏だとも言えますね。
■コレラ菌の正体
コレラとはコレラ菌によって引き起こされる消化器系急性伝染病です。
糞便とともに排泄され、何らの形で口に入り、ヒトとヒトを介して伝染していきます。伝染速度が早いのが特徴です。
消化管に入ったコレラ菌は胃液で多く死滅しますが、少数は腸に到達します。
腸の常在菌でコレラ菌に対抗できるものはないため、ここで爆発的に増殖してコレラ毒素を産生します。
コレラ毒素は腸の粘膜細胞に障害を及ぼし、その作用で猛烈な下痢と嘔吐を引き起こします。
これにより急速に脱水症状が進み、血行障害、血圧低下、虚脱を起こし、死亡に至ります。
放置しておけば75~80パーセントにも及びますが、現在では適切な対処を行なえば死亡率は1~2パーセントに留めることができています。
■コレラの凄まじい猛威
さて、このコレラですが、今まで大きく6回パンデミックを引き起こしています。
第一次パンデミック:1817-1823年
第二次パンデミック:1826-1837年
第三次パンデミック:1840-1860年
第四次パンデミック:1863-1879年
第五次パンデミック:1881-1896年
第六次パンデミック:1899-1926年
ほぼ3年おきに世界的大流行を起こしています。
今ほど医療技術や衛生環境、防疫体制が整っていなかったとは言え、すごいペースです。
もちろん死者数もおびただしい数でした。
例えば第三次パンデミックはフランスで14万人、イタリアで2万4千人、イギリスで2万人という死者を出しています。
日本にも江戸時代に猛威を奮いました。この時のコレラは第三次パンデミックから伝わってきたものです。
日本に最初のコレラが達したのは1822年、これは第一次パンデミックの時です。
大阪、京都まで伝染し、でも箱根は越えなかったのだそう。
当時は「三日ころり」なんて呼ばれて恐れられていました。
発病後三日でころりと死ぬ、という意味です。
それから36年、1858年に今度は第三次パンデミックの波に乗ってコレラが日本を襲います。
一説にはコレラは九州・四国から大阪・京都、さらに箱根を越えて江戸、函館にも至ったと言われ、
江戸だけでも死者10万人、26万人に上ったという記録も残っています。
ただこの数字は倒幕派が意図的に流したデマだったとする説もあります。
トイレットペーパーの買い占めとか見てても、いつの時代も人の心は変わりませんな・・・
このあと1862年に日本で3度目のパンデミックが発生、数万の死者を出しながら明治を迎えます。
コレラの流行に対して江戸幕府はあらゆる対策を講じ、蘭医の禁止を解いたり、関所で人口移動の制限に乗り出したりしました。
関所という仕組みが、奇しくもコレラ対策の実施に役立ったわけです。
■明治でも収まらぬ流行
明治になってコレラが流行らなくなったかと言えばそうではなく、2~3年間隔で数万人単位の患者を出す大流行がずっと続きます。
目下流行中の新型コロナウイルスとは比較にならないほどの激甚ぶりです。
1877年の流行では死者8000人、2年後に再び流行をまきおこし、死者10万超。
そのさらに3年後は死者3万、また3年後に死者10万。
明治政府も地方衛生会を組織したり、衛生行政を警察組織に任せたりして官民一致体制でコレラ撲滅に向かおうとしたものの・・・
いかんせん時代が時代で、対外的には西欧列強に抗うために早急な富国強兵が求められていたので、
衛生行政がどうしても後回しにされ、十分な予算と人員が割けられなかったようです。
それと欧米列強と締結した不平等条約と明治政府の外交経験の不足により、
外国船に対して海港検疫と船舶隔離ができなかったのもコレラ流行の一因でした。
特にイギリス、ドイツ、フランス、オランダは自国の既得権益保持のために日本による自国の主権に基づいた検疫実施を強硬に反対し、
「コレラは日本土着の疫病だから検疫は不要」
という暴論まで唱えられる始末。
海外との交流増大、都市への人口密集と貧困に伴う公衆衛生環境の悪化も流行に拍車をかけました。
ただ一番の原因は、コレラに対する予防と治療の技術がまだ世界的に確立されていなかった点にありました。
明治日本でも患者が出たらとりあえず避病院にぶちこんで強制隔離、まともな治療はほとんど受けられません。
そして死んだら片っ端から火葬していくような状況でした。中には重患者が生きたまま火葬場に送られたという記録も残っています。
これくらいコレラが流行ってしまうと社会不安も半端なく、政府・警察への反発も加わり全国で「コレラ一揆」が頻発します。
コレラ流行の責任の押し付け合いで村同士が喧嘩、警官との衝突、暴動、打ちこわし。
逮捕、処刑者も出ています。
特に1879年に新潟で起こったコレラ一揆では暴徒700人にまで膨れ上がり、ついに軍隊まで出動する事態になり、死者を13人出してやっと鎮圧されます。
このような状況が改善され、患者数も1万人を切るようになるのは1920年代になってからでした。それまでは
「輝かしい明治」
というイメージから程遠く、コレラの凄まじい脅威にさらされ続ける時代だったのです。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。
コロナにかかられた患者の方々の一日も早い回復をお祈り申し上げます。