発見!福岡に生きる旧正月の名残り
■「博多どんたく」と「旧正月」の深~い関係
1月は行く、2月は逃げる、3月は去るとはよく言ったもので、油断しているうちにもう2月に突入です。
お正月の雰囲気もずいぶんと薄れてきました。
日本ではこれから確定申告、そして年度末へと向けて忙しさのギアが上がっていくわけですが、
方や中国や東南アジアなどの華僑圏では、実はこれからがお正月本番です。
「旧正月」
ですね。
または春節と言います。
中国の友人に聞くと、元旦は実は淡々としているそうで、本番は旧正月。
家族親戚で連日団欒するのもこの時期ですし、大型連休があるのもこの時期、
この団欒のために世界中で十何億人規模の民族大移動が起きるわけです。
元旦は「元旦おめでとう」、旧正月は「新年おめでとう」と言い分けるのだとか。
日本では一部地域以外に、旧正月を祝う風習はもうありません。
が、日本も昔は、当たり前ですが陰暦(旧暦)を使っていたので、今日の旧正月に当たる頃にちゃんと正月を祝っていたんですね。
そしてその名残りが実は今の福岡に残っています。
それが
「博多どんたく」
です。
■舞鶴最大のランドマーク「福岡城跡」
博多どんたくの起源を話す上で「福岡城」は欠かせません。
大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)のすぐ近くにある福岡城跡は、
本コラム中でも何度か登場しました舞鶴最大のランドマークにして最古の不動産です。
荘厳な石垣と櫓が建つ中、蓮・桜・梅といった豊かな花木に彩られ、絶好の観光名蹟であるとともに、
約400年前、関ヶ原の合戦で徳川家康につき戦功をあげた黒田官兵衛・長政親子が7年もの歳月をかけて築き、「舞鶴」と「福岡」の地名の由来でもあります。
「福岡城」は、黒田官兵衛の曽祖父の代から黒田家の故郷だった備前国邑久郡福岡(岡山県)から名付けられた名前です。
さらに城を那の津の海側から望むと、翼を開き雅に舞う鶴の姿に見えたことから「舞鶴城」という二つ名が与えられました。
当時は総面積80万㎡、東西1km、南北700mの規模を誇った日本随一の名城でした。
藩主が政治を執り行う福岡の最高行政府である同時に、島津はじめ九州全体に睨みを効かせる軍事施設でもありました。
そのため食糧と武器の貯蔵庫となる櫓が48つもあったと言われています。
櫓の屋根を編んである竹はすべて弓矢にできる竹でしたし、
有事の時に非常食になる干しワラビも一緒に結ばれていました。
まさに常在戦場の心持ちで実に隅々まで考え抜かれた実戦志向の軍事基地でした。
明治に世に入り、1871年の廃藩置県によって1600年以来、約270年にわたって筑前を治めてきた藩主黒田家が福岡を去ります。
残念ながら今では城壁、城門、櫓、天守閣の礎石くらいしか現存していませんが、
数百年の時を経てもなお朽ちることなき威容を十二分に留め、絶好の憩いの場になっています。
ちなみに、福岡城の城下町の起点となった場所が現在の舞鶴三丁目の付近です。
まさに大禅ビルの建っているエリアに当たり、 当時は「本町」と呼ばれています。
名前の通りここを中心に福岡藩で最初の城下町が形成されていったのです。
つまり舞鶴は福岡の歴史の始まりの地でもあったんですね。
そんな福岡城に、江戸時代の旧正月には「博多松囃子(はかたまつばやし)」と呼ばれる芸人の一行が、お殿様へ新年の挨拶に訪れていたそうです。
ちょうど今の時期ですね。
この松囃子というのは、本来小正月(旧正月15日)に行う、新年に祝福をもたらす歳神様を迎える行事でした。
毎年正月に家で飾る門松も鏡餅も実は歳神様を迎えるためのもので、門松は歳神様の依代、鏡餅はお供え物なんですね。
で、依代となる松を伐って家に招き入れることを「松囃子」と呼んでいました。
その「はやし」が歌や曲に転じて、芸能としての松囃子が生まれたのであろうと言われています。
松囃子は、元々京都から各地に伝わったようです。最盛期は室町時代と言われています。
博多では1539年の正月に松囃子が行われていた記録が残っています。
その後、福岡藩の時代には松囃子の一行が、博多の町から藩主黒田家に訪問するようになりました。
笠鉾が先導し、馬に乗った福神・恵比須・大黒の三福神と稚児流れが続き、その後ろに「通りもん」と呼ばれる仮装をした人たちと山車が続く賑やかしい行列です。
松囃子一行による藩主訪問がお祭りとして今でも行われており、国の重要無形民俗文化財にも指定されています。
なんせ800年以上の歴史もありますからね。
そしてその松囃子が博多どんたくとなって、今に引き継がれているわけです。
今では松囃子一行を目にできるのは旧正月ではなく博多どんたくが行われる5月になりますが、
福岡城跡はじめ、博多市中の主立った家や寺社、会社に立ち寄り、「言い立て」というめでたい唄を謡いながら「祝うたあ」と祝福して回ります。
福岡城跡で松囃子一行を迎えるのは、なんと黒田家の第十六代当主・黒田長高様。
まさに歴史が今も続いているんですね。
ロマンを感じますな~。
大禅ビルの近くを松囃子一行が回りながら福岡城へと登っていったのかもしれないかと思うと、
まあなんて縁起のいい場所にビルを建てさせて頂いたのだと、有り難い気持ちにさせられます。
■御礼返しの「一束一本」とは?
ところで松囃子一行を迎える側は、お礼として
「一束一本」
を渡す習わしがあります。
これは江戸時代、松囃子一行が福岡城に繰り込んだ時、藩主からが渡されていたのが今日まで引き継がれているもの。
一束一本は、武士の礼物(れいもつ)として使われていた、言わば御礼返しのセットみたいなもので、杉原紙十帖(200枚)一束と扇一本からなるシンプルな組み合わせです。
杉原紙とは楮(こうぞ)を原料とする伝統的な紙で、
鎌倉時代に播磨国(兵庫県)の杉原村で作られたことから「杉原」と呼ばれ、古くから慶弔や目録用に使われてきた高級紙です。
これがどのような由来で「一束一本」の御礼返しになったのかと言いますと、ここで再び登場するのが福岡の偉人・聖一国師です。
祇園にある承天寺の開き、うどん・そばを日本で広め、さらに「博多祇園山笠」の起源でもある凄い人。
その聖一国師が宋への留学から博多へ帰ってきた時、東シナ海の荒波を無事乗り越えられたのは筥崎宮のご加護によるだとして、御礼参りしたと伝えられています。
が、身一つ命からがらでやっと帰国したばかりの聖一国師に、お供え物として捧げるような物は持ち合わせていませんでした。
そこで中国で求めた扇一本に懐紙を添えて、せめてものお供え物としたのが「一束一本」の始まりだと言います。
物は簡素でも、心がこもった御礼。
その奥ゆかしいあり方が「一束一本」に現れているわけです。
聖一国師が訪れた筥崎宮はもちろん、今の箱崎にある、あの筥崎宮です。
昔は海上交通・海外防護の御利益がありと信仰されてきたんですね。
この聖一国師の筥崎宮への御礼参りも実は今日に引き継がれており、毎年1月に
「承天寺一山報賽式」
と言って、聖一国師の御礼参りに因み、承天寺のお坊さんが筥崎宮の神前で読経する儀式が行われています。
聖一国師の御礼返しが「一束一本」というスタンダードとなり、それが今に続く。時代を超えた御礼返し。
美しい姿だと感じると同時に、ともすれば形式的になりがちな「お礼」のあり方について省みさせてくれます。
年度末は何かと多忙の時期。
そんな時期だからこそ、自分たちの仕事は誰かのお陰様で成り立っているのだという事実を意識して、謙虚に感謝しながら過ごして参りたいと存じます!