発見!国体道路で交差する福岡の歴史
■国体道路の由来
福岡には通りの名前は数多くあれど、「国体道路」は最も親しまれている通りの一つなのではないでしょうか。
博多駅から天神まで最短距離で結ぶ道で、沿線には
キャナルシティ博多、繁華街の中洲、天神、飲食エリアの大名、今泉、さらに警固から大濠にかけては
「けやき通り」
と呼ばれ、瀟洒なビルが立つプレミアムな立地として知られています。
総延長4.5キロにわたる福岡の幹線道路。
昼夜を問わず交通量が多く、混雑しています。
そもそもなぜ「国体道路」という名前なのでしょうか?
実は国体道路は本来の正式名称ではなく、道路法では
「国道202号・市道堅粕西新2号線」
という名称になっています。
では国体道路は何かと言いますと、市が定めた愛称なんですね。
この名前が登場したのは1969年。福岡市制施行80周年を記念して制定されました。
ではなぜ国体とつくのかと言いますと、この道は1948年に福岡市で開催された第3回国民体育大会の年に併せて整備されたので、
以降市民の間で国体道路という名前で浸透したからです。
ちなみに国民体育大会とゆかりのあるこのような国体道路は福岡だけでなく全国にもあります。
また、国体道路と同じように国体開催に併せて整備されたもう一つのスポットが大禅ビル(福岡市 赤坂 貸事務所)に近い舞鶴公園にある
「平和台総合運動場」
です。
この場所はもともと陸軍第12師団歩兵第24連隊の駐屯地だったのですが、戦後GHQの接収が解除され、
「スポーツによるPEACE HILL(=平和台)」
という理念のもと、陸上競技場、球技場などを擁する総合運動場が建設されるに至った経緯があります。
今でこそ国体以外にも、大小様々な国内・国際スポーツ大会が催されるようになりましたが、1948年と言えば終戦間もない頃です。
希望を持ちづらかった厳しい時代に、国体の開催は福岡市民にとって一時でも辛いことを忘れ、
前向きな気持ちにさせてくれた一大イベントだったに違いありません。
それこそ道路の名前にしてしまうほどに、いつまでも心に残したい大切な大切な記憶だったのでしょう。
当時の福岡市民の思いの深さに比べたら、道路の名前を最初に聞いた時は
「マラソンで使う道か何か?」くらいにしか思わなかった私です(汗)
■国体道路、もともとは川だった?
天神から国体道路を警固に向かって下っていくと、ブックオフそばの交差点から薬院へ抜ける「上人橋通り」があります。
が、周囲を見渡しても橋も川も見当たりません。
なぜこの通りには上人橋通りと呼ばれるようになったのでしょうか。
実は今の国体道路は、昔は川だったのです。「薬院川」とも「泥川」とも呼ばれていました。
その川は1935年頃に埋め立てられるまでは警固交差点あたりから天神南の三光橋交差点で薬院新川に合流するように流れていました。
今の国体道路を歩いても、国体道路が川だった痕跡はこれと言って見つかりません。
でも今ブックオフそば交差点は「上人橋の由来」について書かれた立て看板が立っています。
看板にはこうあります。
※※※
上人橋の由来
江戸初期、福岡の城下と現警固一丁目に九千坪の寺地を有していた日蓮宗香正寺との境には小川が流れ、これを越えなければ城下へ入れなかった。
香正寺開山日延上人は囲碁に練達で、かねで藩主黒田忠之公の対手をしていたが、
ある時、降雨で増水した川を渡ることができず、登城の約束を果たせなかった。
後日、これを聞いた藩主は、早速上人のため、紺屋町通りから直線に架橋せしめた。
これが上人橋であり、後の町発展の基礎となった。
昭和十年代、川は埋め立てられ、今の国体道路となる。
「上人橋」と刻まれた石の橋柱は、現在、香正寺庭園内に移され往事を偲ぶ縁となっている。
上人橋橋柱保存有志
※※※
上人橋がかかっていた場所はまさにここ、この交差点あたりだったと思われます。
さて、ここに登場する上人というのは、看板の通り、日延上人のことで、江戸時代に生きた僧侶です。
彼は福岡藩の二代目藩主・黒田忠之とは囲碁仲間で、日延上人は黒田忠之の囲碁の相手を務めるために度々登城していました。
しかし、ある日、雨で川が増水していたために渡れず、お城へ行くことができなかった。
黒田忠之にとって、日延上人との囲碁はよほど大事なレクリエーションだったのでしょう。
今後、川が増水しても日延上人が登城できるように、川に橋をかけさせたのです。
囲碁のためにちょっとしたインフラ工事までやっちゃうのは、さすが殿様といったところです。
そして当時の上人橋の橋柱が、上人橋通り入ってすぐの香正寺の庭に移され、今なお残されています。
柱に彫られた「上人橋」を、数百年も昔の人たちも私たちと同じように見ていたのかと思うと、
時空を超えた繋がりと言いますか、悠久なロマンを感じざるを得ませんね。
■日延上人は何者か?
この日延上人ですが、実は日本人ではありません。
文禄・慶長の役、つまり豊臣秀吉による朝鮮出兵時に、家臣の加藤清正によって連れて来られた朝鮮人なのです。
当時はまだ子どもで、一説には朝鮮国王子の子だったとも言われています。
江戸で清正に育てられ、やがて清正の影響で法華宗(日蓮宗)に入信。
日延と号し、房州小湊の誕生寺第十八世となったといいます。
よほど優秀で徳も高かったでしょう。上人と敬われるようになります。
おそらくは半ば無理やり日本に連れて来られたと思うのですが、この日延上人は育ての親であった清正のご恩を思い、1631年に芝白金に覚林寺を開きます。
そこには「清正公大尊儀」が祀られたことから、「清正公様」の名で江戸庶民に親しまれるようになったという。
また上人はなかなか気骨の僧だったようで、徳川二代将軍秀忠の正室・お江の方の葬儀の席にて、将軍の命よりも
「不受不施(法華経を信仰しない者から布施を受けたり、逆に法施をしたりしないという宗儀)」
を優先し、結果将軍に背くことになり、九州に下ってきます。
幸いなことに、黒田忠之の厚遇を得て、囲碁相手を務めるようになります。
香正寺はこの時に建立されたお寺です。
■歴史がどう転ぶかは誰にも予想できない
7年におよんだ文禄・慶長の役は、日朝双方にとって出口の見えない泥沼の戦争でした。
多くの人命が失われただけでなく、日本側の将兵が朝鮮で投降し捕われ、朝鮮の人々も日本各地へと多数連れてこられたのです。
彼らは「被擄人」(ひりょにん)と呼ばれ、中には日延上人のように、日本の文化や歴史に大きな足跡を残す人もいました。
例えば佐賀県では、朝鮮陶工の「李参平」が創始したとされる初の国産磁器・有田焼、唐津焼などによって陶磁器産業が大発展を遂げました。
また、能書家として活躍した「洪浩然」、鍋島更紗を創始したと伝わる「九山道清」なども知られています。
戦争という悲しい出会い方でしたが、結果的に朝鮮から来た彼らは日本の文化を豊かさの一部をなして来たわけで。
日延上人も、彼と囲碁を打ちたいがために殿様が橋をかけたことで人や物の往来が増え、図らずも地域経済の起爆剤になったのです。誰が予想し得たでしょうか。
歴史ってわかりませんね。だからこそ面白いのかもしれません。
そのような中世と現代の歴史が交錯する国体道路のお話でした。