スターバックス物語①
■大濠公園のスターバックス
大禅ビル(福岡市 赤坂 賃貸オフィス)から少し足を伸ばせば、
「福岡一美しい公園」
と誉れ高い大濠公園が広がっています。
穏やかな水面を湛えた湖を鳥や魚が遊び、公園の周辺を草木が点々と彩る。
行き交う人はぞれぞれの時間を楽しみ、晴れた日には空の青さとも相まって、絵の風光明媚な空間が現れます。
大濠公園の良さ、それは自然と人が調和する心地よさでしょう。
草木があくまで脇役である町中の公園でもなく、かといって野山のような、自然がその野生的なエネルギーで主役を張る空間でもありません。
自然は自然そのままに、人々の「生活」もごく自然にそこに馴染んむ「ちょうどいい」空間なんですね。
そしてここは不動産業界的に言っても、一等地に数えられます。
周辺にはアメリカ領事館、福岡市美術館、能楽堂を囲い、福岡武道館、日本庭園を囲い、ハイソサエティーな風貌を醸し出しています。
さらに、大濠公園のお洒落スポットと言えばこれ!
我らが「スターバックス」です!
風光明媚な水景を一望できます。
ここのスターバックスは
「リージョナル ランドマーク ストア」
といって、地域の象徴となる場所に建てられ、個性的な外観と内装でデザインされた全国25店舗あるコンセプトストアの一つです。
大濠公園スタバのコンセプトは「グリーンストア」。
景観維持と省エネに気を配ったデザイン、FSC認証を取得した木材の使用に加え、
コーヒーの豆かすや公園の落ち葉を用いた堆肥作りなど、サスティナブルをブランドとして発信している店舗です。
こうした文化やライフスタイルの創造点たらんとするスターバックスだからこそ、どこにでもあるようなチェーン店とはやはり一線を画す存在なのだと思います。
コーヒー党ではない私でもそのくらいの凄さは分かりますし、半人前とは言え、一応経営者であるからなおさら、
スターバックスがブランドを文化領域に着地させるまでに壮大な物語があったことは想像に難くありません。
今回は世界一のコーヒーチェーン店であるスターバックスの歴史についてご紹介します。
■スターバックスの始まり
スターバックスの故郷はアメリカのシアトルです。
その始まりは3人の男の存在を抜きにして語れません。
ジェラルド・ボールドウィン
ゴードン・バウカー
ゼブ・シーゲル
です。
ジェラルドは大学で文学を専攻し、後に英語教師の職につきます。
彼のルームメイトだったゴードンは芸術家タイプで、作家と広告デザイナーの仕事をしていました。
そしてゼブは歴史を教える先生でした。
一見して起業や経営に縁もセンスもなさそうな文芸青年の集まりです。
彼らは仲良い友人でした。とても趣味が合ったです。
音楽に旅行、紅茶にワイン、わけてもコーヒーは彼らが最も深く共有する趣味でした。
いいコーヒー豆の噂を聞きつけば遠路を構わず車を走らせるほど、コーヒーをこよなく愛する趣味人たちだったのです。
彼らが一杯の旨いコーヒーにかける情熱、切実さは、60年代当時のアメリカでのコーヒーを巡る状況を知れば、一層深く共感できるように思います。
当時コーヒーの本場は圧倒的にヨーロッパでした。
ヨーロッパでは深煎りによってコーヒー本来のコクを引き出せる良質なアラビカ種がメインでしたが、アメリカには殆ど流通しませんでした。
アメリカで流通していたのはロブスタ種。品質が悪く、安物として買い叩かれるような代物でした。
高品質な豆があることも、極上に旨いコーヒーがヨーロッパで普通に飲まれていることを知る人は少なかったようです。
もちろんアメリカでも食料品店ではコーヒーが売られ、大小様々なコーヒーショップは立ち並んでいました。
しかしコーヒーはまだ
「嗜めるほどの文化」
には程遠く、コーヒーと言えば缶入りの粉コーヒーを思い浮かべるのが普通でした。
おまけに大手コーヒー会社による価格競争が激化し、コスト削減のために風味を犠牲しにて安物の豆を混ぜたり、
缶入りコーヒーが饐えるまでスーパーマーケットの棚から引き取らない会社もざらにあったそうです。
要するに、コーヒーは単なる飲み物で、それ以上でもそれ以下でもなかったのです。
スペシャリティコーヒーショップで手軽にバリスタこだわりの一杯を味わえる今日と違って、
ジェラルドたちにとって本当に旨いコーヒーとの出会いは、とても実現が難しいことだったのではないかと想像します。
出会いを求める彼らの気持ちは、あるいは飢えと表現してもよいのかもしれません。
■極上の一杯との邂逅
そんな中、彼らはある男と運命の出会いを果たします。
男の名はアルフレッド・ピート、オランダ人です。
彼こそが深煎りコーヒーをアメリカに紹介し、初期のスターバックスのメンターを勤めた人物でした。
ピートはアムステルダムの貿易商人の息子で、小さいことはいろんな国の異国情緒豊かなコーヒー豆の薫りに包まれて育ちます。
社会人になってからコーヒーの輸入会社で見習いを経験し、その後貿易商人となりジャワ、スマトラのコーヒー園を渡り歩き、
まさにコーヒー世界のど真ん中で生きてきたプロ中のプロでした。
コーヒーを一口含んだだけで品種から生産国まで分かったと言います。
そんな彼は1955年に渡米しますが、アメリカのコーヒーのあまりの不味さに衝撃を受けます。
なんなんだこれはと。
世界一の経済大国のコーヒーのレベルがこれなのかと。
アメリカ人はまだ本物のコーヒーを知らない、ならば自分がここでコーヒー文化を耕そう―
コーヒー職人の使命感に火がついたか、あるいはビジネスチャンスと捉えたかはわかりません。
とにかくピートはサンフランシスコを拠点にアラビカ種のコーヒー豆の輸入事業を始めます。
ただ、アラビカ種の存在も知らず、コーヒーを安物のお茶程度に思っている人たちに対して高級品の豆を売るのは至難の業でした。
そのためピートは1966年に
「ピーツコーヒー&ティー」
をオープンさせ、焙煎機も独自に輸入し、ヨーロッパ風の風味を十分に引き出す深煎りコーヒーを出すようになります。
「本物を直に体験させる」
というわけです。
彼はそこでコーヒーをワイン同等の高級品として扱い、豆の特質にあった煎り方と飲み方を根気強く啓蒙してきます。
そして彼に店にコーヒーオタクのジェラルドとゴードンがやってきて、ピートに深煎りコーヒーを口にして、そのコクと香りに凄まじい感動を覚えたのです。
本場欧州の深煎りコーヒーとの出会いが気持ちを湧き立たせます。彼らにとって未知なる金脈を掘り当てたに等しい。
このコーヒーは、世界を変えるに違いない。
そんな予感が彼らを捉えていたとしても不思議ではないでしょう。
そんな中、ゴードンにある考えが天啓のように降りてきます。
「そうだ、自分でコーヒー店を開こう」
と。
この考えにみんなも賛成し、金を出しあってコーヒーショップをつくります。
これが「スターバックス」の始まりでした。
■スターバックス、創業。
開店に当たり、彼らは店の名前をどうするかあれこれ考えていました。
候補に挙がったのは今世紀の初めにワシントン州のレーニア山にあった採掘場の名前「スターボ(Starbo)」。
加えてジェラルドは、小説『白鯨』に登場するピークォド号の航海士の名前「スターバック」を提案しました。
議論を重ねた結果、店名はスターバックス(Starbucks)に決まります。
名前が決まれば、次はロゴです。
彼らはシアトル港のルーツを探っていたところ、北欧神話を題材にした16世紀のノルウェーの木版画に描かれた人魚セイレーンを見つけ、こてをデザインに取り入れます。
こうして生まれたスターバックスという名前には、大海原に漕ぎ出すロマンスと冒険心が込められていました。
それは店のコンセプトにも現れ、内装は冒険小説に出てくるような中世の船をイメージしてデザインされました。
手作りと本物の感触、老舗に備わる伝統と風格を想像させるような雰囲気だったのでしょう。
後に世界70カ国以上で約2万6000店を展開し、33万人の従業員を擁する一大グローバル企業とまで成長したスターバックスが創る、最初の世界観でした。
かくして「スターバックス・コーヒー・ティー・スパイス」はスタートを切ります。
1971年4月のことでした。
(つづく)