福岡が生んだ三井財閥総帥・團琢磨
■三大財閥の一角・三井財閥のはじまり
三井不動産は、戦後一貫して売上日本一を誇り、三井住友銀行、三井物産と共に
「三井グループの御三家」
を成す不動産業界の最大手です。
三井の源流はご存知の通り、日本三大財閥の一角を占めていた「三井財閥」です。
三井の歴史は古く、平安時代に権勢を極めた藤原道長が属する藤原北家にまで遡ります。
その子孫である藤原信生が近江で武士となって土着し、「三井」を名乗り始めたのが三井姓の始まりと言われています。鎌倉時代のことです。
ちなみに三井の由来は、信生が琵琶湖の領地で見つけた三つの井戸に財宝があったからだとか。
三井の商売での引きの強さは名前から既に始まっているのかもしれませんね。
そして時代は下り、戦乱の終焉,徳川の天下。
三井則兵衛高俊は商業が太平の世の基礎となることを見抜き、また妻の勧めもあって武士を捨て町人にジョブチェンジします。
当時商業の中心地であった松坂で、質屋、酒、味噌、醤油を商う店を構えました。
「越後殿の酒屋」と呼ばれ、大繁盛したと言われています。
それが時代劇などでもよく目にする「越後屋」の屋号となります。
ただ、高俊はもとは武士だったこともあり、商売に疎かったようで、商売全般を実質的に取り仕切っていたのは妻の殊法だったようです。
伊勢の大商家の娘でもあった殊法は後に
「三井の商売の祖」
と称されるほど商売センス抜群な女性でした。
社長は人はいいが数字にも交渉事にも弱い旦那で、一方副社長は財務からマネジメントまでビシバシさばいていく女房、といったところでしょうか。
今日のオーナー企業でもたまに見かける光景ですね。
高俊には何人か子がおり、母の商家の血を受け継いだ息子たちも各々商売を手掛けるようになります。
そのうち四男である三井高利は江戸で越後屋三井呉服店を創業します。
これが今日まで続く高級百貨店「三越」の始まりです。
呉服は訪問販売で一反単位で定価販売し、代金はツケ払いという当時の商法をくつがえす方法で庶民の心をとらえ繁盛していきます。
それから幕府御用達の両替商としても成功し、商業、金融業において屈指の豪商となります。
その商売はやがて「三井物産」と「三井銀行」となって受け継がれていきます。
明治維新後、三井家は明治政府の資金や物資調達の要請に応え、政商としての基盤を盤石なものにしました。
幕末・維新期を通して、江戸幕府、明治政府は三井なしでは存立すら難しい状況とまで言われています。
賄賂や利権でズブズブだったとも言えますが・・・。
明治時代、三井財閥の最高顧問に就任するなど、特に密接な関係にあった大物官僚の井上馨に対して、「三井の番頭さん」と西郷隆盛が皮肉った話は有名です。
明治に三井から持株会社の「三井合名会社」が設立され、1914年に不動産課が設置されます。
そして1941年に不動産部門が分離し、全株を三井家が所有する「三井不動産株式会社」となって、いまに至ります。
■三井の柱・鉱山業を拓いた團琢磨
三井が本格的に不動産業に注力し始める20年ほど前、実はもう一つ三井の柱となる新ビジネスが立ち上がっています。
「鉱山業」です。
今風に言うとエネルギー産業ですが、この鉱山業を金融、商社とならぶ三井を支える屋台骨事業にまで育て上げたのが、我らが福岡の偉人
「團琢磨(だんたくま)」
です。
團琢磨は1858年、大禅ビル(福岡市 天神 賃貸オフィス)すぐ近くの荒戸で生まれました。
大禅のご近所さんというわけです。
藩校の修猷館に学び、明治になってから岩倉使節団に同行して渡米し、そのまま留学します。
明治の偉人たちがやっぱり凄いなと思うのは、優秀な琢磨はなんと世界最高学府、あのマサチューセッツエ科大学への入学を果たすんですね。
大学では鉱山学を学び、卒業後は東京帝国大学で教鞭を執り、1884年から工部省で働き始め、官僚の道を歩み出します。
琢磨の赴任先は三池鉱山でした。
2015年に大牟田の三池炭鉱の関連資産が
「明治日本の産業革命遺産~製鉄・製鋼・造船・石炭産業」
の一つとして世界遺産に登録されたわけですが、
石炭を豊富に産出した三池炭鉱は、文字通り日本の近代化を支える動力源、産業の心臓部でした。
そこへエースとして琢磨は送り込まれたのです。
三池炭鉱の採掘は江戸時代から始まり、明治に入って官営となり、三井物産が運送と販売を独占していました。
1888年に三池鉱山が三井に払い下げられます。そのタイミングで琢磨はそのまま三井に移籍し、三池炭鉱社事務長、つまり炭鉱経営の最高責任者に就任します。
ここで彼は三池港の築港、鉄道の敷設など、炭坑経営の近代化と合理化に敏腕をふるい、また大牟田川のしゅんせつ工事も実施しました。
■経営の目線は遠くに
三池港を築港していた時に発した言葉があります。
「石炭山の永久などということはありませぬ。(石炭が)なくなると、いま市となっているのが、また野になってしまう。
これは何か三池の住民の救済の法を考えておかぬと始末につかぬと、自分は一層この築港に集中した。
築港をやれば、そこにまた産業を起こすことができる。都会としてメンテーン(維持整備)するについて、築港しておけば百年の基礎になる」
目の前の順境にあぐらをかくのではなく、地域が持続的に発展していけるよう、いま打てる手を将来に向けて打っていく姿勢に、バランスの取れた優秀な経営者の姿が伺えます。
伊達に日本財界の最高指導者を張っているわけじゃないですね。
1909年に琢磨は三井鉱山会長となります。
この頃すでに三井鉱山の利益は三井銀行を追い抜いて三井物産と肩を並べるようになります。
三池炭鉱は
「三井のドル箱」
と言われ、以後の三井財閥形成、しいては国家の産業発展のエンジンとなっていきます。
琢磨はこの実績を以って三井の中で発言力を強め、1914年には三井合名会社の理事長、つまり三井財閥総帥に登りつめます。
さらに1922年に日本経済聯盟会を設立、1928年には同会長となります。
この日本経済聯盟会こそ、今日の「財界総本山」である
「日本経済団体連合会(経団連)」の前身なのです。
名実ともに日本財界の旗振り役となった琢磨でしたが、1932年3月5日、東京日本橋の三越本店寄り三井本館入り口で、右翼テロリスト集団・血盟団のメンバーから狙撃され、悲劇の最期を遂げます。
琢磨が暗殺対象となった理由は、昭和金融危機で三井がドル買い占め、投機で利益を上げていたこと、あるいは労働組合法の成立を反対した報復であるとも言われています。
■いまに残る日本人の心の歌『炭坑節』
「月が~出た出た~ 月が出た~ ヨイ♪ヨイ♪
三池炭坑の~上に出た~
あまり煙突が~高いので~
さぞやお月さん~けむたかろ~ サノヨイ♪ヨイ♪」
福岡はもちろん、日本全国の夏祭りや盆踊りの定番ソング、人によっては小学校の運動会などでも踊ったことのある方はいるかもしれません。
『炭坑節』
です。
歌詞にもある通り、三池炭鉱を歌った歌謡なのですが、これは実は戦後炭坑節が大流行する中で出版物や歌詞カードの誤記から生じた間違いのようで、
もともとは田川の三井田川炭鉱の女性労働者たち選炭作業のテンポに合わせて口ずさむようになった
『伊田場打選炭唄』
が原型であると言われています。
歌が全国区で有名になっていくにつれ、まあこれも世の常ですが、発祥地争いが勃発します。
田川炭坑と三池炭鉱のどちらが本家かで長年揉めていましたが、いまでは田川炭鉱が炭鉱節発祥の地ということで落ち着いています。
もしかして琢磨も炭坑節を耳にしたのかもしれません。
ただ、先見の明に富んだ財閥総帥も、炭坑節が身内で発祥地争いにまで発展するとはさすがに予見できなかったでしょう。