いよいよ開幕!三国志展 in 九州国立博物館
■実寸再現の曹操墓を拝めるチャンス
「三国志 特別展」がついにわが福岡にやってきます!
10月1日(火)~1月5日(日)の約2ヶ月間、太宰府の九州国立博物館で開催されます。
開催趣旨に
「今から1800年以上前、漢王朝は徐々に力を失い、社会秩序は混乱をきたすようになりました。
そうしたなか、太平道や五斗米道などの教団か民衆の心をとらえて立ち上がり、黄巾の乱(184年)が勃発するなど世情は大いに乱れました。
動乱の収拾をはかる漢王朝は、有力諸将の力を頼みとしました。
しかし、これがかえって彼らの台頭をゆるし、華北では曹操が、長江上流域では劉備が、
南の長江中・下流域では孫権が政権を握り、魏・蜀・呉の天下三分の形勢が定まりました。
こうして三国時代(220〜280年)が幕を開けたのです。
魏・蜀・呉の歴史は、正史『三国志』や小説『三国志演義』に著され、長く人々に親しまれてきました。
21世紀に入ると、曹操墓の発掘など重要な考古学成果が相次いだことで、三国志研究は新たな局面を迎えることになりました。
実物資料をもとに、三国志の世界を再構築する時代が到来したのです・・・」
とあります。
大事なことは最後に書かれています。
「曹操墓」
です。
そう。今回の目玉はなんといっても曹操墓ですよ!
この実寸再現が展示されるとのこと!
三国時代の最大国・魏の礎を創った稀代の英雄である曹操の墓は一体いずこか?
長らく中国では謎で、千年以上探し続けても見つからずじまい。
例え見つかってもそれが曹操墓だとは同定できなかったのです。
それが近年の考古発掘により河南省安陽市の村にあった陵墓が2009年に学界から正式に曹操墓であると確かめられ、
さらに約10年もの研究期間を経て、2018年に墓に埋葬されていた遺骨が確かに曹操本人のものであると証明されました。
中でも曹操墓の同定に大きく寄与したのが石碑です。
「魏武王常所用」
「魏武王常所用格虎大戟」
「魏武王常所用格虎短矛」
など銘文が刻まれていました。
魏武王とは曹操の称号です。
まさに「世紀の大発見」にふさわしい。
欲を言えば英雄曹操の遺骨をレプリカでもいいのでこの目で拝んでみたかったのですが・・・。
九国さんにぜひとも頑張って欲しいところであります。
■発見された2体の女性の遺骨
実は曹操墓には曹操の遺骨の他に、2体の女性の遺骨が合葬されていました。
うち一体は鑑定により老齢の人間のものだと分かり、曹操の妻であるの卞氏(べんし)の遺骨であると大方の意見が一致しています。
曹操が埋葬された後、再度墓が開かれ別の人が埋葬されるという「二次葬」の痕跡が曹操墓にあることが分かっており、
この時に卞氏は埋葬されただろうと推測されています。
ちなみ卞氏の遺骨の特定の過程において、研究者たちはある疑問に頭を絞る必要が出てきました。
後世の裴松之による『三国志』の注釈によれば卞氏は71歳に亡くなったとのこと。
一方、老齢女性の遺骨は50歳前後という鑑定結果が示されていました。
史料の記載との20歳もの年齢差が疑問視され、研究者たちは考古発掘と史料記載との整合性を確かめる必要が出てきたのです。
この遺骨は本当に卞氏のものなのか、鑑定の過程に遺漏はないかと。
古代の婚姻制から曹操一族の死亡時期、古代の飲食習慣の違いに起因する歯の摩耗具合の差異も含めて再度総合的に検討した結果、
卞氏の正確な死亡年齢はおそらく64歳頃だったのではと推定されました。
骨考古学分野での人骨鑑定は一般的に10年前後の誤差は許容範囲内とされているため、卞氏の遺骨は高い確度で同定されたという結論になりました。
ざっくり過ぎない!?と思われるかもしれませんが、歴史の研究なんて、誰もその場を直接見たわけではないので、推定が歴史を復元する唯一の方法です。
史料だって100%正確ではありません。書かれた当初から間違っていたのかもれませんし、『三国志』に至っては3世紀末に成立し、
1700年もの間伝わってきた古本中の古本ですから、齟齬が全くないと言う方がおかしいでしょう。
なおもう一体の女性遺骨はいまなお正体不明です。
曹操と同じ墓に入るほどの人物ですから、もしかして妾だったのかもしれません。「英雄色を好む」の言葉通り、たくさん女性を囲っていた曹操ですから。
■盗掘された曹操墓
曹操墓は完璧な状態で発見されたのではなく、建ってから幾度となく盗掘に遭っています。
掘り起こされた大量の泥が墓の中に溜まっていたことがその証拠です。
曹操は生前から薄葬、つまり葬儀は華美なものにしてはならないと命じていたので、映画などでありがちな大量の金銀財宝が副葬品として発掘されることはありませんでした。
中国大陸最大の権力者にまで上り詰めた者の墓にしては、あまりに簡素で控えめで、わずかながら生前の曹操の身分や権威を示す
鉄剣や鉄刀
陶鼎(とうてい;食物を煮たり祭りに用いたりする三脚の器)
璧(へき;円盤状の玉器)
圭(けい;上方が尖った長方形の玉器)
といった貴重な文物が発掘されていますが、なんとその殆どが砕かれた状態だったのです。
さらに曹操はじめ3体の遺骨の頭蓋骨も、曹操の称号・魏武王と刻まれた石碑などもことごとく割られていました。
逆に魏武王の三文字が刻まれていない石碑の多くは無事だったのだそうです。
これは一体誰の仕業でどんな目的で行ったのを明らかにすることが課題となっていました。
史料文献とも突き合わせた結果、どうも曹操墓が初めて盗掘されたのはおそらく彼が死亡してから70年頃経った西晋後期の八王の乱の頃で、
もしかして政治的報復のために墓荒らしに遭ったのではないかと言われています。
■墓の向きが違う?
曹操墓の同定に遺骨の他にいくつもの課題がありました。その一つが
「墓の向き」
です。
漢の時代の墓の殆どは南に向きに建てられています。一方、曹操墓は東向き。
なぜ曹操墓だけ違うのか、本当に曹操墓なのかと、これも謎でした。
望郷の念に駆られた曹操が、自らの墓を実家・豪州(今の安徽省)のある南方に向けさせた説なども唱えられていましたが、
豪州の曹家先祖の墓や、曹操の族子だった曹休の墓を調べるとすべて南向きだったそうです。
南向きは実は曹家古来の習わしだったことが分かったのです。
このような大小さまざまな疑義を、膨大な発掘物と史料文献をもとに精査し、一つ一つ論拠を与えていくのが歴史学です。
気の遠くなるような作業ですね・・・。
とてもじゃないが、私にはできそうにありません。
今の私たちが歴史を楽しめるのも、歴史研究者たちの粘り強い職人魂のおかげです。
■三国志展に行こう!
曹操墓は規墳の大きい墓もなければ、高い祭殿もありません。
数百年も経つと場所も人々の記憶から忘れ去られてしまう。
その目立たなさのおかげで以後1800年もの間、墓の所在が分からずしまいだったわけです。
「墓を暴かれるのを恐れて72個もの偽物の墓をこさえた」
といった民間伝説が中国でまことしやかに流れていたほど、曹操墓の所在はミステリーでした。
それだけに曹操墓はロマンの塊です。
長々と曹操墓の薀蓄を垂れてしまいましたが、とどのつまりぜひ行きましょう!
というシンプルな思いをお伝えしたかっただけであります。
今の時点でもう既に期待値は高め!
来月は大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)から久しぶりに九国へと足を伸ばすことになりそうです。