バブルの歴史⑥ ―平成バブル―
■平成バブルの背景は日本経済の絶好調
大禅ビル(福岡市 舞鶴 貸し事務所)不動産研究室より数回にわたりバブルの歴史についてご紹介して参りましたが、
いよいよ我が日本史上最大のバブルである
「平成バブル」
について、書いていきたいと思います。
まず時代背景として押さえておくべきは
「日本経済の絶好調」
と
「プラザ合意」
の2つのです。
高度経済成長の終了後も、日本経済は規模を拡大しながら安定成長を続けてきました。
特徴として挙げられるのは日本製品の高品質高価格化です。
高度経済成長期の強力な牽引役となった日本の製造業は「量」、つまり大量生産を目指していました。
今でこそ
「日本製は物はいいけど高い!」
なんて海外市場から愚痴られること久しいわけですが、当時の日本は発展途上にあって、品質よりも価格の安さで勝負していた時代だったのです。
しかし、高度経済成長が終わりを告げます。原因は石油ショックです。
そこで日本は方向転換して高付加価値を目指すようになります。
車やトランジスタなどですね。
高品質の代名詞となる「メイド・イン・ジャパン」ブランドのイメージは、この十数年で形づくられ世界で評価を得ていきました。
かたやアメリカでは
「物価上昇と不景気」
というスタグフレーションに陥っていました。
インフラの血液である石油の値段が上がると他の物にも波及し、物価全体が引きずられるように上がっていきます。
そしてタイミング悪く不況も重なり、仕事が少ないのに日用品の価格ばかりが上がっていくという二重苦の状況。
「とにかく物価上昇を止めなければ!」
そう思った当時の大統領ジミー・カーターは、連邦準備制度理事会議長にポール・ボルカーを指名、アメリカ史上類を見ないほどの金利引き上げを実施させます。
金利を上げることで貨幣供給量を絞り、物価上昇を抑えようというわけです。
その結果、1979年に平均11.2%だった金利は1981年には20%を超え、ドルが人気になりドル高となります。
一方、円はドルに対して安くなったため、アメリカへの輸出に拍車がかかります。
日本製の自動車などはアメリカで値下がりし、逆にアメリカの車が日本に売れなくなります。
貿易量全体についても、アメリカの対日輸出量は減り、日本の対米貿易量は増える一方でした。
この時の貿易不均衡は凄まじく、1981年の70億ドルの黒字だったアメリカの対日貿易収支は、85年には大幅に逆転し、2120億ドルの大赤字に達しています。
日本はアメリカがガンガンお金を稼いで黒字を積み上げるようになり、アメリカは日本からものを買いすぎる状況が起こります。
■プラザ合意による経済危機
「日本は儲けすぎる!けしからん!」
アメリカは貿易不均衡を政治の力で是正しようとします。
1985年に行われたプラザ合意は、ドル安にしてアメリカの輸出を増やし、円を高くして日本の経常収支の黒字を減らすことでアメリカの膨大な経常収支赤字を改善するのが目的でした。
ちなみに後の1989年から始まった日米構造協議でも、アメリカは日本に対して
・アメリカからの輸入を増やせ
・アメリカの小売業が日本に出店しやすくしなさい
・海外に売るばかりではなく、内需を拡大して日本国内でお金を使うようにしなさい
といった内政干渉とも言える要求を次々と突きつけ、当時総理大臣である中曽根さんも要求を呑んでしまうわけですが、
大国アメリカが目の敵にするほど、当時日本の経済は絶好調だったのです。
さて、プラザ合意後は急激に円高が進み、1ドル=240円から120円近くまで、2年ほどで円の対ドルレートが約2倍になりました。
日本製品の海外価格が2年の間に2倍近く跳ね上がったという計算です。
これでは一気に製造業の売上がガタ落ちするのは火を見るより明らか。
円高不況の到来です。
製造業の苦境に対し大蔵省は日銀に金利を下げさせ、大幅な金融緩和を行います。
1985年に約5%だった金利が4回の引き下げを経て、翌年には3%にまで下げられます。
これが功を奏し、ほどなくして景気は回復。
タイミングよく原油価格が下がり、さらに円高による輸入原材料の値下がりも物価安定と景気回復に寄与しました。
低金利でも借り手がいない今日の不景気とは異なり、当時は金利さえ低ければ銀行から借り入れしたいという資金ニーズが大量にあり、
金融緩和で金利が低下したことで、銀行の貸出が著しく増加しました。
市中に大量に供給された資金は、設備投資や住宅建設、不動産購入、株式購入といったまとまったお金が必要な投資ニーズに流れていきました。
物価安定、景気拡大を背景に、金融緩和が行われたのがバブルの始まりと言えます。
■高騰していく都心地価
バブルが拡大する重要な原因の一つが都心の地価高騰でした。
当時の日本では景気が絶好調、外資系金融機関や企業が都心にオフィスを構え、富裕層も都心に住むようになるという期待が働き、
投資家たちの資金が都心の不動産に流れ込み、地価が高騰したのです。
都心の狭い自宅を高値で売却して、郊外に「億ション」を建てる人も出てきました。
都心の土地を売却益には税金がかかりますが、売却代金で代わりの自宅を購入した場合には、税法上の居住用財産の買い替え特例により税金がかからなかったのです。
その結果郊外の土地も値上がりを始めるようになります。
さらに
「このまま地価が上昇を続けたら、一生自宅が持てなくなる!」
という危機感がサラリーマンに広がり、住宅ローンを借りて自宅を買う動き人が増えていきます。
こうした動きも、地価を押し上げる一因となりました。
1956年から1986年にかけて物価上昇は4倍弱に対し地価はほぼ右肩上がり、30年間で約50倍にまで上がっています。
1990年には日本の不動産評価額は総額2000兆円を超え、これは日本の25倍もの面積があるアメリカ全体の不動産総額の約4倍に当たる規模でした。
常識を超えた暴騰です。
■銀行にとってのビジネスチャンス
不動産を持っているだけで儲かるという状態だったため、大企業から中小企業まで、日本中が不動産投資に走るようになりました。
銀行の融資審査も、借り手企業の事業内容よりも、どのくらい不動産を持っているかが基準となっていたほどです。
高度経済成長が終わり、企業の設備投資が一巡したところだったため、銀行は新しい貸出先を探していた時期でした。
このような時に不動産の資金借入需要の増加は、銀行にとっても大きなビジネスチャンスだったと言えます。
1985年からたった5年間の間に銀行の貸出残高は96兆円に増加し、うちの半分は本業とは関係ない不動産投資で儲けようとしていた中小企業向けの貸し出しでした。
そうした値上がりを期待した投資用不動産は企業の保有不動産全体の3/4近くを占めていたと言われています。
日本は焼け野原の戦後、地価上昇をずっと体験してきました。それゆえ
「地価は上がっていくもので下がらない」
という
「土地神話」
が日本人の認識に深く根を下ろすようになります。
土地への期待が日本人の投資行動の前提となり、市場をバブルに押し上げたとエンジンとなりました。
ちなみに地価高騰の現象は主に大都市で起こったわけですが、
大都市圏には大手銀行が基盤としていたため、大都市の不動産への投機資金源の多くは大手銀行が担っていました。
大手銀行の多くがバブル崩壊で破綻した理由の一つがここにあります。
一方、地方都市の地価はそれほど上がらず、東京圏と地方圏との地価上昇率の差で言えば大きいところで約2倍もの開きがありました。
大手銀行の惨状に対して、財務事情が比較的健全だった地方銀行が命脈を保ち得たのはこのためです。
(つづく)