気象観測の道を拓いた福岡の偉人夫婦
■大濠公園沿いの気象台
大禅ビル(福岡市 舞鶴 貸し事務所)近くの大濠公園、その側に建っているのが福岡気象台です。
私の母校である福大付属大濠高校のちょうど向かいに当たります。
正確には「福岡管区気象台」と言って、沖縄県を除いた九州・山口地方を管轄し、気象だけでなく地震・火山の観測などを行っています。
私たちが天気予報でお世話になる「天気の情報機関」ですね。
天気のコントロールまでいかなくても、せめて天気がもたらす想定外の衝撃を最小限に抑えるために!
人間は気象観測技術を発達させ、今では天気予報という形で情報共有を行っています。
日本のように天災の多い国だとなおさら、天気予報は時として生死を分かつ重要な情報となることもあります。
それでなくても、梅雨降りしきる今の季節、天気予報は欠かせませんよね。
この時期に梅の実が熟すから「梅の雨」と呼ぶわけですから、梅雨とは農家の世界観から立ち上がった天気の定義と言えます。
梅雨のように、古くから天気は私たちの生活に深く関わってきました、というよりむしろ人間を支配し、人間の世界観を形作ってきたと言ってもよい。
農業に限らず、小さくは洗濯物干しから、大きくは天災から身を守ることまで、私たち囲む多くの要素は天気という大自然の摂理の影響下にあります。
今でこそ、レーダーや人工衛星といった文明の利器のおかげで天気予報の精度もスピードも格段に上がっていますが、
そうした機器やセンサーがない時代は、人々はもっぱら温湿度計や目視といったアナログなやり方など、、、
できる限り高い場所から千変万化する空模様をなんとか捉えようとしてきました。
■高層気象観測への悲願
時は明治。近代化のエネルギーがあらゆる分野に及ぶ中、難題の一つとして上がったのは気象学の発展でした。
普段の天候はもちろん、特に台風襲来の予報は、災害リスクの高い日本の国土・気候の特質からも喫緊の課題とされていました。
しかし明治日本にとって最も重要な国家課題は、なんといってもいかに西洋列強の圧力から我が身を守るかでした。
そのために明治になったと言っても過言ではありません。
それゆえ富国強兵が最優先され,気象学に対して国レベルで応えるまでには、道はまだ遠しといった状況だったのです。
既に気象庁の前身である東京気象台が創設されてはいましたが、芳しい成果は上がらず。
というのも、最大の課題はやはり高度。
できる限り高い場所で、通年での完全な観測データを収集できるかどうかが、気象予測のブレイクスルーでした。
当時の世界でこれに成功していたのはほんのわずかの事例しかなく、まして冬山の観測は皆無でした。
この前人未到の難題に挑んだのが、福岡出身の野中到(いたる)とその妻・千代子でした。市井に生きる無名の夫婦です。
到は早良郡鳥飼村で生まれ、代々藩主黒田家に仕えた家系でした。
父は到を医者にしたい意向があったようですが、本人は成長するにつれて気象観測に興味が向くようになります。
「天気は高い空から変わっていく、富士山で気象観測所を設けて、年中気象観測を続ければ天気予報は当たる。正確な予報が実現すれば、国民の利益になるに違いない」
到は気象の勉強する中で確信を強めていき、ついに自費の富士山観測所設立を思い立ちます。
東京大学予備門(後の東大教養部)に入学するも中退、1895年には日本で初めて富士山冬季登頂を果たします。
富士山頂での越冬が可能であることを証明しました。
そして同年夏に再び登頂し、約6坪の観測用の小屋を作って観測を始めたのでした。
■妻・千代子の志
一方、千代子は那珂郡警固村で生まれました。
父は本コラムでも紹介しました能楽師・梅津只園です。
実は干代子の母は、 到の父の姉にあたるので、千代子は到の従妹という関係です。
気象観測に夢を馳せたのは到でしたが、同志としてその志をともに携えたのが千代子でした。
千代子は到の計画を知ったときから、行を共にしたい思いがあったという。
到の悲願をなんとか成就させてやりたい、しかし冬山の山頂では観測業務のほか、生活全般は万事独力でしなければならない。
そのような状況で何かあればさぞ無念であろう、と。
こう思い至ったとき彼女は決断を下したのです。到のみならず周囲にもきつく止められました。
しかも二人には一人娘もいたのです。しかし娘を福岡の実家に預けてまでして、千代子は夫を追いかけて富士山に登ります。
登山前に博多に滞在していた千代子は、背振山などを踏破して足腰の鍛錬に打ち込み、気象学や気象観測の方法まで勉強します。
その準備の周到さ、覚悟の固さに舌を巻く思いがします。
■想像を絶する過酷な世界
季節は10月半ば。山頂は連日マイナス20度以下という凄まじい環境下にありました。
加えて2時間おきに気温、風速、気圧など多くの観測記録を残していく必要があり、神経が休みません。
12月には殆どの観測機器が壊れ、温度計のほかは大半が使用不能に陥ります。
追い打ちをかけるように二人は相次いで凍傷や高山病にかかり、栄養失調で歩くことすらできなくなってしまう。
その中でも夫婦は、重体に陥りながらも観測を続けました。
二人の身の危険が山頂を訪れた到の弟・野中清によって伝えられ、救援隊がかけつけるも、もうしばらく観測を続けさせてほしいと夫婦は泣いて懇願したという。
半ば説得される形で救援隊に背負われて夫婦は下山し、数年を費やしながらようやく健康が回復します。
こうして冬季を通して富士観測を行うという野中夫妻の試みは道半ばで途絶えましたが、この決死の偉業は共感と感動を呼び、小説や劇になり日本を大いに沸き立たせました。
しかし到自身は十分な結果が得られなかったことを恥じていました。
このため、到は本格的な観測所の建設を目指し「富士観象会」という民間団体をつくり、富士山気象観測への理解と援助を呼びかけました。
また、富士山頂における気象観測の有効性を訴えるべく、その後も絶えず登山し観測を続け、中央気象台へデータを提供していました。
到の事業は後に中央気象台に引き継がれていきます。
夫妻は再挙を期して準備を始めますが、流感がたたり、不幸にして千代子は家族を看病した後52歳で亡くなります。
二人の武勇伝は一世を風靡しました。
しかし到本人は不満だったと言います。
その理由は、後年、夫妻の長男野中厚が述懐から知ることができます。
「母の生存中のことでした。父に褒章の話がありました。
父はもしくださるならば、千代子とともに戴きたい。
あの仕事は、私一人でやったのではなく千代子と二人でやったものですと言って、結局、その栄誉は受けずに終わったことがありました」
到は、千代子の死後は富士山頂の越冬気象観測については二度と口にしなかったと言います。
最初は個人の目標であった富士山頂の越冬気象観測は、生死の境を彷徨い、今や夫婦の志となったのです。
その戦友である千代子亡き今、到にとってはこの志は永遠に届かぬ夢となったのでしょう。
世間は野中到の偉業だと褒め称えるが、千代子がいてこそ実現した挑戦、千代子がいなれば自分の情熱はこれほど続かず、命すら危うかったのかもしれない。
なぜ世間はそれを分かってくれないのかと、もどかしい思いがあったのかもしれません。
アプリで手軽に天気予報を調べられるようになった今。
その裏には、気象観測に命がけで挑んだ福岡の若き夫婦の志と愛の物語があったのです。