大禅ビルより新年のご挨拶
■新年明けましておめでとうございます。
新しい年の始めを迎えながらも、いよいよ平成の終わりも迎える節目となった2019年のお正月を、皆様いかがお過ごしでしたか?
昨年一年間を振り返りますと、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)では玄関の改装、貸し会議室の運営開始、
ウェブサイトのリニューアル、ベトナム視察など、不動産の世界に身を置きながら、「動」に尽くした一年間だったように思います。
中でも「社長交代」は弊社にとっても、私自身にとっても最も大きなイベントであったに違いありません。
テナント様、お取引先様、そして友人、家族に支えて頂きながら、なんとか社長業一年目を無事に勤め上げられました。
同時に、物心両面にわたる皆様の力添えの有り難さを実感した一年でもありました。
お客様のために、期待して下さっている全ての方のためにまだまだ精進せねばならぬと、噛み締めた年末でした。
仕事の多忙な日々よりも、比較的時間がゆっくり進む年末年始。
正月行事を一通りこなした後、ゆっくり考え事に耽る余裕も出て参ります。
■大禅ビルの事業意義
大禅ビルは、いわゆる「築古」に属す古いビルです。
創業は古くとも、ビル自体は新築な不動産も多い中、大禅ビルはあえてその「古さ」を「個性」とすべくブランディングを打って参りました。
「レトロレンタルオフィス」というコンセプトも然り、
それをベースとした「外側のレトロさ」と「内側の目新しさ(設備・清掃・自社管理サービス)」とのギャップの訴求づくりも組み立てています。
埃かぶったお堅い「古さ」ではなく、老舗のゆえの信頼が表れる「古さ」を目指して参りました。
時代はいつも変わり続け、よりスピードと複雑性が増して来ています。
時代にあわせて自身が変わらなければ生き残れないとすれば、老舗というのは時代とともに自身を変革できる存在でしょう。
老舗として残って来た、この事実は即ち時代の要請に呼応できたことの証だとも言えます。
一方、変化に臆しない姿勢でありながらも、変えてはならない自分だけの軸も一層意識すべきだと考えます。
大禅ビルも最新鋭のデザインと設備が揃ったビルに建て替えようと思えば可能でした。
しかし、綺麗なビルが軒並み連ねる舞鶴・赤坂エリアで、大禅ビルが今すぐそうしたビルを建てる意義は果たしてどのくらいあるのか。
地元や業界、そして社会に対して、自社の売上向上を超えたところに、私たちならではの、私たちだけが果たせる価値とは?
といった問いが根底にありましたし、
単なる金銭装置としての企業ではなく、「利」と「義」が両立するあり方を模索し続ければ、
同時それが自社の競争的優位性としても昇華していけると考えていました。
舞鶴の街の記憶を引き受ける風景の一部として、古さを経営資源に活かす貸しビルとして・・・。
企業の社会的責任、という大仰なものでもありませんが、大禅ビルのアイデンティティーに常に意識の軸足を置きながら様々な手を打ってきたのは確かです。
だから時流を追って個性を丸ごと消し去るのではなく、中身は時流に沿い、外面は敢えて時流に走らない方向に舵を切っていったわけですし、
街の風景の一端を担う者として、天神に次ぐ商業街に大禅ビルのような「少しずらした」建物もあった方が、数寄が利いて面白いかなとも思いました。
お陰様で、私たちが打ち出してきた大禅ビルの個性に惹かれて入居を決められたテナント様も出てくるようになり、大変有り難い限りです。
「古さ・伝統・昭和的」が一巡し、そうしたファクターを逆に「新しい、面白い」として捉えられる感性が台頭しつつあるかもしれませんね。
■温故知新の力
伝統的な器に、現代的なコンテンツが流れ込んだ時。
新旧の価値観の編集が起こる時。時代への解は、なんとなくですが、いつも温故知新の中から紡がれていくような気がしています。
数年前とある国に出張に行った際、仕事がてら現地の友人に観光に連れて頂きました。
そこでお寺をご案内頂き、東京ドームの広さか?
と思わせるくらい、中々な規模の由緒ある古刹で驚く一方、なんとも言えない違和感がなぜ湧き起こり、
けれどそれが何なのか上手く言葉にもできず、悶々としながら帰国の途についたのを覚えています。
それからしばらく忘れていたのですが、昨年暮れに福岡県大川市で開催された「クラフトマンズデイ」という家具職人のイベントに参加した際に、ふと思い出しました。
大川市は日本一の家具職人の町です。
このイベントは、伝統工芸に前衛的な息吹を吹き込み、新しい日本のおもてなしとプロダクトの発信・事業化を目指す
「WAZA JAPAN」という職人×デザイナー×企画家のプロ集団によってプロデュースされていました。
その中でも目玉企画が、約1800年前に創建された神社・風浪宮で行われる一夜限りのシュライン(神社)・ダイニングで、
伝統と革新はこういう合わせ方もあるのかと、衝撃の一言に尽きます。
およそ神社という伝統と歴史の場に似つかわしくないような
ステージ、大型スクリーン、ライトアップ、プロジェクションマッピングが神秘的な夜の境内を縦横に彩り、
地元家具職人とイタリアのデザイナーとのコラボ作品、伝統芸能のパフォーマンス、
更に東京の一流シェフが地元食材で組み立てた美食の数々が世界各国から来られた数百名のお客様を楽しませていたのです。
そのイベント自体の幕開けも、風浪宮への奉納神事から始まるものでした。
プログラムの演出の一つでしょうが、なるほどハレの日の祭と考えればごく自然だよな・・・と思ったものです。
かつて異国で訪れたお寺は、ただの観光施設だったのです。
持っているのであろう長い歴史と伝統が、「文化財」という箱の中に押し込められ、綺麗に保存されている風でした。
あたかもショーウィンドウに飾られた展示品のように、鑑賞する・観賞されるという関係性が、訪れる人との間に取り結べる唯一のものであるかのよう。
そのお寺の建物全てに「生気」が感じられなかったのです。
人々の信仰の拠り所として、地域を繋ぐ場として、人の生活が行き交う風景の一部としての「お寺」ではなく、お寺の形をした伝統風な建物に過ぎず、
年中観光客で賑わっても、年末年始に参拝客でごった返す光景など、とても想像できなかったのです。
それほどまでに、私には人工感の強いお寺でした。
東京の浅草寺の方がよほど寺らしい、と思いました。
線香がけぶり、出店が並び、参拝客も観光客もお坊さんもいる。
本堂前の常香炉で線香の煙を浴びる光景はもはや浅草寺定番の絵面ですし、そうした振る舞いが歴史と伝統を今に活かす触媒に見えます。
現代と接続しない歴史と伝統には、温故はあっても知新は難しい気がします。
というより、温故知新の本来の意義の実現は難しい。
温故知新が価値のイノベーションの起点だとすれば、古さを視界の外に追いやり、新しさを一途に追い求めるような
「古さと新しさの断絶」は生命力を衰微させる行為と言えます。
それは事業においても、生活においても、人生においても言えます。
もし大禅ビルがひたすら新しさ追えば、外面だけは小綺麗にまとまっても、そこに大禅の歴史から滲む大禅らしさはなかったでしょう。
「いま、ここ」のみに立脚した広がりない閉鎖的な新しさには、往々にして本来持っているアイデンティティーを漂白しかねません。
どこでも買えるようなインスタントな規格品に深い魅力を感じないように、どこでも借りられるようなビルには、立地と家賃のほかに見出だせる特別な価値はあまりないでしょう。
だから大禅ビルでは古さを個性とし、今日にリニューアルしたところに強みがあります。
古さというより、「時間の積み重ね」をブランディングしたと言った方が正確かもしれません。
神社仏閣も貸しビルも同じ、人様に使って頂いて初めて不動産はお役に立てられるというもの。
人と不動産との幸せな関係はシンプルにかくあるべきなのではと、年始めに神社から伸びる長蛇の参拝列に並びながら思ったものです。
2019年も引き続き、大禅ビルは
「テナント様の成功が私共の成功」
を理念に、お客様第一目線で事業を行って参る所存です。
一層のご指導、ご鞭撻のほど、宜しくお願い申し上げます。