建築史シリーズ 日本の近代建築㉒
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的に教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナー、建築家というのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
このシリーズではそうした美に携わってきた建築家たちを中心にご紹介していきます。
◯バウハウス流モダニズムの旗手・山口文象
山口文象は、清水組の大工棟梁の次男として浅草に生まれ、大正2年頃から大工仕事を手伝うようになります、
父の仕事を継ぐべく清水組に入社、名古屋の工場や銀行の工事現場に配属されますが、建築家に憧れたため退社。
東京に戻るものの、戦後恐慌で仕事の口が少なかったため、全く面識のなかった中条精一郎のもとへ押し掛け、官庁への紹介状を書いてもらい、逓信省営繕課の製図工になります。
大正10年頃からは分離派に参加し、そして分離派のロマンチシズムよりもさらに社会性の強い組織として大正12年に創宇社を立ち上げます。
創宇社という名前には「新しき建築を創造し、宇宙を満たす」という意味が込められています。
昭和6年にドイツへ渡り、グロピウスのもとでモダニズム建築を体得し、昭和9年に建築家としてデビュー。
第2次世界大戦を挟んで機能主義、合理主義建築の作品を世に送り出すほか、土木から和風住宅までをこなしました。
町田市立博物館
町田市立博物館は、山口個人が直接設計を行った作品とされています。
構造は鉄筋コンクリート造2階建て、地下1階建ての施設です。
道路に向って低くなる大きな屋根が載り、背後の森の斜面と建物高さを同程度とすることで、森と住宅地を緩やかに繋ぐ役割を果たしています。
屋根の中央部にはモニュメンタルな塔が置かれ、 道路に面した外壁は、コンクリートパテ打放しの上に花満岩の雑割石を貼っています。
バウハウス様式の黒部川第2号発電所
山口はダムにも造詣が深く、日本電力の嘱託として、山口は黒部川第2号発電所及び堰堤を手掛けました。
外観は広義にはインターナショナルスタイル。
立面の構成は、発電施設の置かれた3階までの右側部分と突出させた左側部分とを梁型で接続し、右側部分は柱型を出して壁面を分割し、水平な庇を突き出しています。
側面には白い箱と対比するように赤く丸みを帯びた鉄橋が架かっています。
◯表現を追い求めた建築家
村野藤吾は、兵役後に建築学科に入学しており、学生時代はセセッションに傾倒。
卒業後は渡辺節のもとに勤め、一転して歴史様式を学びます。
独立後はそれを生かしながらも、後期表現派ともいえる表現派的傾向の建築活動を開始します。
戦後は、今井兼次らとモダニズムの唯一の対抗勢力として最後まで表現派の活動を続けました。
90歳を超えても設計を続け、その創作意欲は留まることがなかったそうです。
渡辺翁記念会館
宇部セメントなどを経営した渡辺祐策素行翁を顕彰する施設。
正面の階段に沿って両翼に3本ずつ計6本のコンクリート打放しの列柱を配置しています。
この柱は、創設者を記念して寄贈した沖ノ山炭坑会社などの6社を象徴するものとされています。
ホールの柱は、天井との接続部を徐々に広げて緩やかに繋ぎ、床の接続は柱の基部を黒とすることで陰影が生じ、浮いたように見せています。
八ヶ岳美術館
八ヶ岳美術館は、長野県諏訪郡原村にある村立の美術館で、彫刻家・清水多嘉示による作品の寄贈を契機として1980年に開館しました。
外観は、ドームが連続する構成となっていおり、ドームの高さを抑えることによって建築が雑木林の風景に溶け込むような設計となっています。
室内設計の最大の特徴は、室内の天井を覆う布。
ドームの天井面を布で覆うことで、空間における天井やドーム同士の接続部の存在感を弱め、空間を一体化し、また、清水多嘉示のブロンズ彫刻を包み込むような柔らかな空間を演出しています。
◯日本的モダニズムの追求者
吉田鉄郎は、はじめは表現主義的なデザインに傾倒し、その後は白い箱のモダニズム的な傾向を示し、徐々に日本の柱と梁の構成を生かした日本的なモダニズムを追求していきました。
吉田が東京中央郵便局を経て、大阪中央郵便局で到達した鉄筋コンクリート造の
特性を生かした日本的な真壁造の表現は、戦後に丹下健三の木割の美を加えた広島平和記念会館によって到達点へと至ります。
吉田は、こうした柱と梁による日本的な表現の試みにおける、先駆けと言えます。
旧京都中央電話局上分局
表現主義の影響を受けていた吉田の傾向を示す建築ともされています。
北側は塔を突出させるような構成ですが、南側は塔を突出させずに量塊的に盛り上がって行くような表現。
ドイツ表現主義の影響を見ることができます。
◯ヒューマニズムを志した建築家・今井兼次
今井兼次は、大正末期から昭和初期にかけてドイツ表現派などの欧米の最新の建築事情や、ル・コルビュジエ、エリエル・サーリネンなどを雑誌などで紹介し、さらにガウディやシュタイナーを日本で最初に紹介した建築家として知られています。
特にガウディに関してはその研究に半生をかけています。
今井の建築作品も、それらの建築家の作風を独自に取り入れたものであり、合理主義を超えた人間の精神性の表現だと言えます。
大隈重信記念館
佐賀県佐賀市の大隈重信の生誕地に、大隈重信旧宅とともに建つ付属施設です。
構造は鉄筋コンクリート造2階建て。大隈重信の生誕125周年を記念して企画された記念碑的な建築で、竣工の翌年に佐賀市に寄贈されています。
大地から建築が生えてきたように、中央の一対の太い柱と四隅の柱、テラスの柱が県木の楠の根幹を模しています。
日本二十六聖人記念館
鉄筋コンクリート造の聖堂及び資料館からなり、聖堂は3階建て、資料館は2階建て。
1862年のローマ教皇による列聖から100年を記念して、モダニズムとガウディを取り入れた野心作です。
日本二十六聖人とは、豊臣秀吉によるキリシタン禁教令に基づいて、1597年に処刑されて殉教した、フランシスコ会の6人の宣教師と20人の日本人の信者です。
記念館は彼らの殉教地となった小高い丘に建てられました。
聖堂の有機的な双塔の形状や陶片を用いたモザイクは、今井が心酔していたガウディの影響が見られますね。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。