建築史シリーズ 日本の近代建築⑲
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的に教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナー、建築家というのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
このシリーズではそうした美に携わってきた建築家たちを中心にご紹介していきます。
◯芸術としての建築を追い求めた中村順平
中村順平は大阪で生まれ、曾禰達蔵・中條精一郎の建築事務所で研鑽を積みます。
フランスに留学して、パリのエコール・デ・ボザールで学び、日本人として初めてフランス政府公認建築士の称号を得ました。
エコール・ド・ボザールにおいて常に最高の優等生であり、外国人学生として異例の設計実技第一席、学科第二席、連続して各コンクールに1等賞、最高賞を獲得します。
帰国後『東京の都市計画をいかにすべき乎』を自費出版で刊行し、大東京市復興計画案を発表。
これは中村が1924年に製作した関東大震災からの理想的復興を示したもので復興が中途半端に実施されている状況を憂い、ドイツ製の高性能カメラで撮影された空中写真をもとにバロック式の帝都道路交通網が設計されているものでした。
その後日本の海運産業の盛り上がりで、豪華船の室内装飾は民族文化の発揚が求められるようになり、ネオ日本様式の創造に意欲を燃やす中村にとって船内装飾は格好の活動の場となりました。
1924年に、横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)に開設された建築学科の主任教授として、後進の教育に当たります。
中村はここで、日本初のそして唯一のボザール流の建築教育を実践し、妥協のない指導を展開します。
さらに学外では私財を投じて、1925年に東京日本橋に中村塾という名の建築の私塾を設立し、多くの建築家を育成しました。
如水会館
如水会館は一橋大学の同窓クラブ「如水会」の同窓会館として、1919年に建設されました。
洋風3階建で、部屋ごとに様式が変わり、中庭に面したベランダなど、凝った造りで多くの方々に愛されてきました。
◯大阪のモダニズム建築家・木子七郎
木子七郎は1884年、トップ職人たちが集まる宮内省内匠寮技師の子として京都に生まれました。
東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、大林組設計部技師として来阪。
独立の後、建築設計監督の業務を開始。
日本赤十字社病院嘱託、日本赤十字社大阪支部病院嘱託、合資会社新田帯革製造所嘱託などを務め、大阪を拠点に多くの公共建築の設計を手がけました。
萬翠荘
萬翠荘は、愛媛県松山市中心部に建つフランス・ルネサンス風の館です。
松山城の城山の南麓に位置し、重要文化財に指定されています。
松山で最も古い鉄筋コンクリート造建築であるとされ、屋根は寄棟造、スレートおよび銅板葺き。
屋根中央にはマンサード屋根、東南隅には尖塔を設けて外観に変化をもたせています。
玄関の床は大理石、玄関ホールの柱は岡山産の万成石、正面階段の手すりは継ぎ目の無い南洋チーク材の一本木、
各部屋には色の異なる大理石で造られたマントルピース(暖炉)、水晶のシャンデリア、ステンドグラスなど様々な意匠が凝らされています。
当時は社交の場として各界の名士が集まったという。
愛媛県庁舎
設計は木子七郎、構造計算は東京タワーを設計した内藤多仲が担いました。
和洋折衷の帝冠様式とされ、ドーム状の屋根と左右対称が特徴。戦前は緑色で塗装されていたそうです。
◯多彩な様式を表現する渡辺仁
渡辺仁の作品スタイルは当時の建築家としては珍しく、歴史主義様式のほか、表現派、帝冠様式、初期モダニズムと多岐にわたっています。
主要作品には服部時計店、東京帝室博物館(原案)、第一生命相互館などがあります。
1887年に東京で生まれ、父は後に東京帝国大学工科大学校長となる渡辺渡です。
東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、鉄道院、逓信省を経て1920年に独立。
旧服部時計店
旧服部時計店は銀座のシンボル的存在で、渡辺の代表作の一つです。
構造は、大地震にも耐えられるように鉄骨鉄筋コンクリート造となり、外壁も御影石を用いて強靭な作りに変更されました。
外観はネオ・ルネサンス様式であり、瀟洒な雰囲気を漂わせています。
大時計は四面が東西南北を向いており、当時の銀座のどの位置からも見えたそうです。
現在はセイコーホールディングスの子会社である和光の本店となっています。
東京国立博物館
1872年に創設された日本最古の博物館。現在は東京の上野恩賜公園内にあります。
当初はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計でしたが、関東大地震で大破したため、再建することとなり、「日本趣味を基調とした東洋式」の建物とするという条件付きでコンペが開催されました。
そこで273点の応募作の中から渡辺の案が採用されたのです。
明治神宮宝物殿と同様に、日本伝統の木造建築を鉄筋コンクリートに置き換えた、形と技術の和洋折衷建築となっています。
鉄筋コンクリート造などの不燃式建築に和風瓦葺の屋根を載せた帝冠様式の代表的建築と紹介されることがあります。
また当時としては、耐火、防盗への対策を最高レベルで講じたもので、閉館時には窓の鎧戸を下ろし、電気を切断。
監視人が別館から張番を行う「金庫式の堅城」と呼ばれるものでした。
2001年に「旧東京帝室博物館本館」の名称で重要文化財にも指定されています。
第一生命館
本社屋である東京・日比谷の「第一生命館」は、1938年に渡辺仁と松本与作の共同設計で建設されました。
終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)庁舎として接収され、マッカーサー総司令官は東京に進駐した当日に、都内を車で視察し、複数あった候補の中からこのビルを選んだといわれています。
マッカーサーが使った司令官室は今も残されていますが、残念ながら非公開だそうです。
外装は花崗岩を主とし、装飾を排したシンプルなモチーフの力強いデザインでまとめられています。
意匠の特徴として、西側には方柱が10本立ち並んでいます。
本来は建物周囲に円柱を巡らすギリシヤ風のものも立案されたようですが、工費と面積に無駄が生じるとし、皇居の御濠に面する西側のみに10本の方柱を立てて、美観を添えると同時に夕日と騒音を遮ることを目指したそうです。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。