建築史シリーズ 神社と仏教建築②
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的に教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナー、建築家というのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
このシリーズではそうした美に携わった先人たちが紡ぎ上げてきた建築の歴史を中心にご紹介していきます。
◯平等院
平等院は、京都宇治にあり、現在は特定の宗派に属していないちょっと変わったお寺です。
寺の建物である鳳凰堂は国宝とし世界に広く知られています。
それまでの仏教建築では、塔・金堂・講堂などとそれを囲む回廊があり、庭はありませんでした。
しかし平安中期から盛んになった浄土教の教えは、極楽浄土を願うことだったので、その思想が庭園にも反映され、浄土庭園が生まれました。
特徴は、水・緑・石に加えて洲浜を備え、庭を舟で見られることです。
古くから日本人にとって極楽とは、島にあって水際には砂石を敷いた洲浜があることだったのです。
建築と庭園がセットではじめて一つの浄土空間とされました。
なお、現存する浄土庭園は平等院鳳凰堂の庭と毛越寺の庭しかありません。
平等院鳳凰堂は、本尊・阿弥陀如来坐像が安置された阿弥陀堂です。
中心となる中堂と、北側と南側にある二つの翼廊、そして尾廊の4棟から成り、華麗かつ荘厳な世界が広がります。
中堂の屋根上に鳳凰が据えられていることから、江戸時代より鳳凰堂と呼ばれるようになったといわれています。
鳳凰堂を上から見た様は、鳳凰が翼を広げている姿を模したものにも見えますね。
自然である庭と一体になることで、建築は一層優美な姿になるのです。
また、阿弥陀堂は修行堂ではないため、方三間(四隅の柱が正方形状に配置され、その一辺が三間)でよかったのです。
これらのことから、鳳凰堂は思想を形態で現し、装飾で表現し、行動に合わせた内部空間にし、さらに庭と一体化させたことがわかります。
◯投入堂
投入堂は、鳥取にある投入堂は日本に残る最古の神社建築の一つです。
三佛寺の奥院として、三徳山北側中腹の断崖絶壁の窪みの中に建造された懸造仏堂で、平安時代の密教建築の数少ない現存例です。
「懸造」は舞台造とも呼ばれ、急な断崖や段差のある場所に地形に合わせて柱を立てて建築をつくる技法です。
崖、岩場の上に異なる複数本の長さの柱で水平衝立な床面をつくり、柱同士を貫や筋かいを用いて固定されています。
山岳信仰を行う密教や修験道は仏や観音様を崖や岩屋に安置することが多いのです。
日本建築史上、他に例を見ない特異な建造物であるとともに、屋根の軽快な反り、堂を支える長短さまざまな柱の構成など、建築美の観点からも優れた作品であり、日本の国宝に指定されています。
しかし険しい行者道を登った先の、文字通り絶壁の中に建ち、その上方は岩壁が覆い被さる「日本一危険な国宝」とも呼ばれています。
投入堂には、役行者(修行道の開相)が法力で小さくしたお堂をと投げ入れた、という言い伝えが残っています。
三佛寺には、投入堂までの参拝ルートにもいくつかの興味深い重要な建築があります。
道を登っていくと、室町後期の懸造である文殊堂や地蔵堂があります。
さらに登ると鎌倉時代の鐘楼堂があり、そして投入堂と同じ平安後期に建てられた春日造の納経堂が現れます。
まさに希少建築のオンパレードです。
投入堂の木材には檜が使われ、屋根は檜皮葺きです。
当初、柱はベンガラの赤、壁は白、垂木の先端は金色だったことがわかっており、もとは神社建築として建てられたのです。
にしても崖の斜面に合わせて木の柱を立てるのは、すごい精度ですね。
◯法界寺阿弥陀堂
法界寺は京都伏見にある真言宗の寺院で、開山は最澄とされています。
法界寺の阿弥陀堂は、とても長く優美に伸びた軒の出で有名です。
美しい屋根には、深い軒の出や屋根の反りがとても重要です。
ですが、無理をすれば折れてしまう。
細かいピッチで垂木を入れるにも限界があります。
もっと根本的に軒を出す方法はないか?
そうして生まれた部材が、桔木でした。
垂木の下に桔木を仕込み、てこの原理を利用して支点の片側から力をかけることによって、それまでとは比べられないくらい深く軒を出すことができるようになりました。
桔木は縁の下ならぬ、天井の上の力持ちですね。
◯東大寺南大門
奈良を訪れる観光客が必ず回る東大寺ですが、実は1180年、平重衡による南部焼き討ちで一度焼失しています。
その後、再建されることになりますが、新しい東大寺はそれまでの和様ではなく、大仏様で建てられました。
宋に渡り、最新の技術や文化を学んだ後、東大寺の創建を担った僧侶、重源は、それまでの和様から貫を用いて地震に耐えられる新しい建築様式の大仏様を完成させました。
貫とは構造強度を高めるために柱に通す水平材です。
貫のような柱に穴を空ける工法は縄文・弥生まで遡れるといわれていますが、なぜか和様ではその工法は使われませんでした。
重源はどうして和様を進化させることができたのでしょうか?
重源は宋に幾度も行っており、そこで竹構造にヒントを得たとも考えられています。
いずれにしても重源は、貫を用いて、それまでとは比べものにならない構造を強くし、財政的・技術的に多難な時期にあった東大寺を見事に再建してみせました。
強度が高く合理的だった貫工法は、それ以降の日本建築に有効に取り入られていきました。
大仏様は初期の禅宗様の一部に折衷されていきますが、従来の和様から見ると異様だったためか、徐々に減っていきます。
しかしながら、外から入ってきた工法や技術のいいところを取り入れつつ、その後の建築に活かしていった当時の人々の知恵は特筆すべきところと言えそうです。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。