建築史シリーズ キリスト教建築①

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

このシリーズではそうしたデザイナーたちが紡ぎ上げてきた建築の歴史を中心にご紹介していきます。

 

◯ギリシア十字式教会堂の誕生

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)が生んだ重要な建築様式に、ビザンツ建築があります。

 

特徴としては教会内部装飾のモザイクや、柱頭の四角錐の下すぼまりの形状や深い葉飾りの彫刻などがあります。

 

ビザンツ建築の中で特筆すべきはギリシア十字式教会堂の誕生です。

 

これは四角の平面にドームが架けられている様式です。

 

ギリシア十字式の基本となったのは、ドームを中心にして四方にヴォールトの腕を伸ばして構成のクロスドーム型です。

 

中世において、ギリシア十字式の有名な建築として挙げられるのが、サン・マルコ大聖堂です。

 

 

床・柱・壁の綺羅びやかなモザイク、黄金の美しさ。

 

「ギリシア十字式」は、祭壇を中心部におくと典礼が効率的に行えるバシリカ式に比べ使い勝手が悪くなりますが、それでも中心へ意識を集中させたことは、建築様式で体現される宗教的エネルギーが伺えます。

 

サン・マルコ大聖堂は「地上世界」を象徴する立方体の上に「天上世界」を象徴するドームが載る構成です。

 

これはまさに、天上世界のヒエラルキー(位階性)を重視した東方教会が、ビザンツ帝国滅亡後、建築を通して可視化した神の国の投影と言えます。

 

◯キリスト教建築の機能性デザイン

11世紀も後半になると、聖遺物崇拝のための聖地巡礼の気運が高まります。

 

三大聖地のひとつであるサンティアゴ・デ・コンポステッラ大聖堂へと繋がる巡礼路が発達しました。

 

 

そこで誕生したのがロマネスクの巡礼教会堂です。

 

巡礼教会堂はそれまでの教会堂と異なり、典礼に支障をきたすことなく巡礼者が堂内を巡回できる回遊の設計になっています。

 

これなら巡礼が祈祷の妨げになることはありませんし、玄関廊では大勢の巡礼者の入堂を制限することもできます。

 

クリュプタ(地下祭室)には聖遺物を保管し、巡巡礼者たちの目的である礼拝と同時に、盗難防止の機能も満たします。

 

交差部には高い塔を立て、巡礼者たちが遠くからでも教会を見つけられるようにしています。

 

キリスト教の典礼と思想に適したバシリカ式が「巡礼」という時代の要請を受けて、進化したのです。

 

ロマネスク建築の革新性はヴォールト構造抜きでは語れません。

 

交差ヴォールトの誕生によって、トンネルヴォールト下部の壁構造が不要になりました。

 

これはすなわち、壁からピア(柱)への変換でもあり、これによって身廊へ光をよりよく採り込むことができるようになったのです。

 

◯シャルトル大聖堂の絢爛豪華

シャルトル大聖堂は、フランスでもっとも美しいゴシック建築のひとつです。

 

 

1130-1150年に双塔がつくられましたが、当時はロマネスク様式でした。

 

しかし1194年に起きた火災で、南塔と地下聖堂の間のファサードを残すのみで燃え落ちてしまいました。

 

同年からスタートした再建の際に、北塔にはロマネスクではなくゴシック様式が採用され、南北で異なる様式の塔が並ぶことになりました。

 

燃えずに残った南塔は105メートルの飾りが少なく質素で重厚なロマネスクの角錐の塔です。

 

113メートルの北塔は後期ゴシックの優美な塔となっています。

 

「フランボワイアン(火焔式)」とは、15世紀以降に流行った建築の装飾の技巧性が際立つものをいいます。

 

塔だけでなく大聖堂のいたるところにその装飾の特徴が見られ、正面の入口などにあるような、絡み合った曲線型のトレーサリー(複雑な線状要素からなる窓の枠)が好まれるようになっていきました。

 

パリのサン・セヴラン聖堂、およびサン・ジェルヴエ聖堂、ルーアンのサン・マクルー教会、モン・サン・ミシェルの大修道院聖堂の内陣などが、このようなフランボワイアン様式となっています。

 

シャルトル大聖堂は、経済の中心でありランドマークでもありました。

 

北端側のバシリカ入口で織物、南端側で燃料·野菜・肉類を扱い、さまざまな商品を売る市場的な機能をもっていたのです。

 

さらに失業者たちが仕事を探しに聖堂に集まるようにもなりました。

 

疫病が蔓延し犠牲者が多く出たときには北側の地下聖堂が病院の役割を担ったこともあったようです。

 

◯時間もコストも莫大!

西洋で大聖堂といえば、司教座の置かれている教会堂のことをいいます。

 

ローマ教会ではキリスト教公認後、各地方を司教区として区分しました。

 

司教区に司教の座る椅子、すなわち司教座を置き、それぞれを統括・監督したのです。

 

大聖堂の建立には長い年月がかかりました。

 

中でもケルン大聖堂は、実質的な工事期間はなんと350年。

 

ゴシック期に工事が開始され、完成したのはゴシック・リバイバルの時期でした。

 

他にも、シャルトル大聖堂は主要部に約27年、アミアン大聖堂は大部分の完成に約44年もかかりました。

 

一方、アヤ・ソフィア大聖堂はたった6年ですが、これはローマ皇帝ユスティアヌスによる発令によるところが大きく、1万人もの労働者を雇用できる莫大な建設資金があったことに由来します

 

 

最も建設コストがかかったのは実は石材の運搬で、そのため大聖堂もできる限り地元産の石材が利用されました。

 

現代のように車やクレーン、エレベーターは当然ありません。

 

ここで活躍したのは牛車でしたが、ぬかるみや轍、わずかな傾斜によって立ち往生することも多かったそうです。

 

水路を利用できる場合、運搬は遥かに楽になりました。

 

こうして苦労して運ばれた石材は下げ振りと水準器によって正確に据えられ、モルタルによって接合されました。

 

大聖堂は、市民の信仰心の発露としてこの世に現れた存在ですが、社会基盤や技術、十分な資金がなければ建ちませんでした。

 

教会建設事業の過酷さで暴動が勃発し、建設が中断されるケースもあったようです。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 

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