2020年 明けましておめでとうございます!
■謹賀新年!
新年明けましておめでとうございます!
本年も引き続きよろしくお願い申し上げます!
昨年は公私ともに大きな変化があった年でした。
良かったことも、苦しかったことも多々ありましたが、家族、友人、社員、テナント様、パートナー様に支えて頂き、
お陰様で社長2年目をなんとか乗り越えることができました。
まだまだ、未熟者の若造ではございますが、本年も引き続きどうぞ宜しくお願い申し上げます。
年末は世間が次々と仕事納めを迎える中、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)はギリギリ大晦日まで仕事にかかり、
恒例のペンキ塗りや諸々事務作業を終えてやっとひとまず仕事納めとなりました。
さて、新年も新年で何かと楽しく忙しく、今年も実家で母が腕を揮って準備した御節と博多雑煮を両親と食べてから、
一緒に住吉神社〜櫛田神社〜水鏡天満宮へ三社参りをしてきました。
そして今年からは、御節に妻手作りの栗きんとんが新しく加わりました。
元旦の食事と三社参りにも妻が参加。
ああ、家族が増えるってのは、こういう感じなのか・・・
と、母と妻が料理する姿を見てしみじみと感慨に耽った私であります。
変わらないことへの感謝と、新しく加わってくる喜び。
これらの大切さを噛みしめた元旦でございました。
ちなみに、妻が作ってくれた栗きんとん。
大変美味でしたが、栗きんとんは漢字では「金団」と書き、金の団子もしくは金の布団を意味します。
栗の見た目の美しい色合いから金塊や金の小判に例えられ、商売繁盛・金運・財運を呼ぶそうです。
これはつまり、もっと稼いでね!
という妻からのメタメッセージなのでしょうか・・・
ぐぬぬ(滝汗)
家族の幸せのために、頑張るしかなさそうですね!
■水鏡天満宮で思い馳せる
三社参りで参拝させて頂いた「水鏡天満宮」。
ここは学問の神さま・菅原道真を祀った神社です。
神社の知名度と規模においては太宰府天満宮が一番ですが、この水鏡天満宮も道真を語る上でなくてはならない重要な神社で、
というのも、九州最大の繁華街である「天神」はこの水鏡天満宮に由来するからです。
神社の縁起について書かれた看板を見てみましょう。
※※※
水鏡神社
◆祭神管原道真
◆祭日 十月二十五日
この神社は一名水鏡天満宮という。
社伝によると延喜元年(九○一年)管原道真が太宰権師に左遷されて博多に上陸の時、
四十川(現在の中央区今泉)の清流を水鏡として姿をうつされたので後世その地に社殿を建てて水鏡天神、又容見天神といった。
慶長十七年(一六一二年)初代藩主黑田長政が現在の地に移築遷座し、
寛永十八年(一六四一年)二代藩主黑田忠之が社殿を再建した現在福岡市の中心「天神」の地名は当社に由来す。
社宝として、水鏡天神緣起、(大鳥居信祐筆)、鏡天神緣起、渡唐天神像、その他がある。
尚当宮正面鳥居扁額は、元総理大臣広田弘毅が小学校の時揮毫したものである。
平成二十五年十月八日 寄贈
寄贈 福岡天神リバティライオンズクラブ
※※※
太宰府に左遷された道真が博多に辿り着いた時に川の水面を覗き込み、そこに憔悴し、変わり果てた自分の姿を見て嘆いたと言います。
「水鏡」はここに由来し、今泉(かつては庄村と呼ばれていました)に社殿が建てられます。
さらに時代が下って黒田家の手により今の場所に移され、再建されたわけです。
社殿を再建した二代目藩主の黒田忠之は、本コラムでも前に紹介させて頂きました。
朝鮮生まれの日延上人と囲碁を打つために橋まで架けさせた藩主ですね。
その橋は「上人橋(かつては聖人橋)」と呼ばれ、今の上人橋通りの由来になっています。
上人橋がかかった道が、今では国体道路となっています。
■道真はなぜ政権から排除されたのか?
右大臣まで位人臣を極めた道真が排除された理由には諸説あります。
理由はおそらく複合的に絡んでいるとは思いますが、もっとも大きな理由は
「既得権益の貴族層との政治闘争の敗北」
だと考えられています。
当時の日本において天皇は権威の中心でしたが、実権は皇室の外戚として天皇家を凌ぐ権勢を振るっていた藤原氏ら権門と言われる門閥貴族でした。
各地に領地とそれを守る私兵を保有し、地方豪族と直接結びついて独自に財力と武力を蓄えていました。
そのため力の弱い朝廷は貴族からまともに徴税することができず、さらに民間でも虚偽申告が横行したという。
例えば当時の税制は成人男子に対して一定の税を課す人頭税が中心でしたが、成人男子7万人のうち実に3万人~5万人が脱税していたという説もあります。
税制は国家運営の根本ですが、大宝律令以来の徴税システムは有形無実と化し、天皇を中心とする国家体制の土台が崩れつつあったのです。
「権力の集中と分散の度合い」は国の形を左右する重要なバロメーターです。
権力がどこにどれくらい集中し、あるいはどれくらいバラバラになっているのかを観察するだけでその国の状況がある程度推測できます。
道真の時代は、飛鳥時代の日本政治を専横していた豪族・蘇我氏と天皇家との関係に似ていますね。
最終的には乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺し、大化の改新を成し遂げた中大兄皇子と中臣鎌足らに軍配が上がりました。
これを起点に豪族から天皇を中心とする政治へと移り変わっていきます。
しかし歴史とは面白いもので、中央集権国家創立の立役者となった中臣鎌足の子孫である藤原氏が、今度は平安時代で既得権益となって権勢をほしいままにします。
歴史は繰り返されると言いますか、人間は変わらないと言いますか、諦観にも似た気持ちになりますね。
藤原氏らがのさばるこのシビアな状況に対し、時の宇多天皇は危機感を覚え、優れた実務手腕の持ち主であり当代最高の頭脳である菅原道真を重用し始めます。
菅原家は祖父の菅原清公以来、文士を輩出してきた学問の家柄ですが、家格は門閥貴族、
特に天皇家と血縁上濃く結ばれている藤原氏らには及ぶべくもない弱小貴族でした。
逆に既得権益層と距離があったからこそ、宇多天皇に起用されたとも言えます。
今日の企業の経営改革でも、取締役やコンサルタントを外部から招くのに近いですかもしれません。
■道真が担った税制改革の顛末
宇多天皇のもとで道真が担ったのは税制改革でした。
今で言うところの財務大臣と国税庁長官を兼ねたポジションで大規模な改革を図ります。
徴税システムの再建、土地国有の回復を実現するために道真は人頭税から土地課税への転換や土地の実勢調査といった政策を打ち出しますが、
当然のことながら門閥貴族の反撥を招き、そこに道真の破格な栄達に対する妬みと、
譲位によって上皇となった宇多上皇と息子の醍醐天皇との後継者をめぐる政争も加わって、道真の改革は志半ばで頓挫します。
実は道真亡き後も、律令制への回帰を目指した道真の改革が引き続き試みられるようになりますが、失敗し、
大宝律令に立脚した天皇を中心とする中央集権的な政治体制、国家による人民一人一人の直接支配の枠組みはその後の日本で放棄されます。
権力は委任統治を通じて地方へと大幅に分散されます。
これがやがて軍事貴族である武家棟梁が長として、地方を実効支配する武士層の取りまとめを通じて支配を確立する封建制に繋がっていくのでした。
決して広くはない水鏡天満宮は、このような数多な歴史の物語が濃く詰まっている場所なんですね。
水を鏡として我が身の来し方を振り返った道真のように、私たちも歴史で自身を映してみたいものです。
2019年は、思い返せばあっという間でした。2020年もあっという間でしょう。
常に振り返りができるよう、一歩一歩足跡を残す日々を歩んで行く所存です!