―「不動産」と「人」との幸せな関係とは?―
阪急グループ創設者・小林一三②
前回に引き続き、阪急グループの創設者・小林一三についてつらつら書いていきたいと思います。
そう言えば先日東京出張行った際の宿先がまさに阪急のホテルでした。
「阪急大井町ガーデン」
ホテル、レストラン、カフェ、居酒屋、温泉、そして百貨店が一体となった立派な複合商業施設です。
JRとりんかい線からも近く、交通の便が絶好のロケーションでした。
駅チカの百貨店、駅チカのホテル。
今となっては当たりとなってしまったこのコンセプトを、世界で初めて形にしたのも小林でした。
―■世界初の「ターミナルデパート」―
1920年に神戸線が開通したタイミングで、社名は阪神急行電鉄から「阪急電車」へと改められます。
梅田駅はターミナル駅として、毎日10万人以上の利用者で溢れ返るのです。
人が集まる場所に商売ありとばかりに、小林は更に一手を打ちます。
「百貨店を開業してはどうか」と。
当時の百貨店と言えば、呉服屋発祥のものが多く、またその場所も駅から離れた場所にあり、車による無料送迎サービスなどでお客様を迎え入れていました。
それならばと
「駅に百貨店があれば、送迎の必要もなく、もっと気軽に使ってもらえるのでは?」
と小林は考えました。
今で言う駅チカの百貨店も、ましてや鉄道会社が百貨店を運営することも、日本はおろか世界に前例がありませんでした。
さらに小林自身も百貨店経営の経験がありませんでした。
しかも世は世界恐慌。これだけの投資して果たして回収できるのだろうかと疑問視されました。
ただ小林には勝算がありました。
「素人だからこそ玄人では気づかない商機がわかる」
「便利な場所なら、暖簾がなくとも乗客は集まるはず」。
小林は構想を行動に落とし込んでいきます。
神戸線開通と同じ年に、小林はターミナル・デパートとなる5階建てのビルを梅田駅の隣に建設します。
1階には東京の百貨店「白木屋」を誘致し日用品や雑貨の販売をしてもらい、2階には阪急直営の食堂を設けました。
しかし、この時3-5階はテナントなど入れませんでした。5年間の間、白木屋の出展を通じてマーケットを観察・研究すると共に、経営を実地で学んでいったのです。
そして「白木屋」の契約満了の機会に合わせ、満を持して阪急直営の百貨店「阪急マーケット」を開店します。
阪急直営食堂は4-5階に移し洋食メインとし、下階では食料品や雑貨の販売フロアとしました。
販売、食堂とも瞬く間に大人気となったのです。
その後、1929年に地上8階・地下2階という巨大な(旧)梅田阪急ビルを建設します。
「阪急百貨店」の名を冠し、現在の阪急うめだ本店へと繋がっていったのでした。
―■映画事業への展開―
小林を語るうえでもう一つ欠かせないのが映画事業です。
現在日本には大手映画会社3社、それぞれ東宝、東映、松竹がありますが、売上高ダントツが東宝です。
業界シェアは約30%、あの黒澤明の『七人の侍』、「コジラシリーズ」など円谷英二の特撮、「ドラえもんの長編シリーズ」『もののけ姫』などアニメ作品、
さらにTV番組の『太陽にほえろ!』も東宝が製作ないし配給を手がけた名作で、日本映画の黄金時代を築き上げました。
この東宝を創ったのも、他ならぬ小林でした。
1932年に、演劇・映画興行を目的に「株式会社東京宝塚劇場」が設立さ、当時の松竹と日本の興行界を二分します。
のちの社名は「東京宝塚」の略称として使われていた「東宝」から「東宝株式会社」に変更され今に至るのでした。
ちなみに東宝は90年代に入ると、自社での製作は「ゴジラ シリーズ」を除き行われなくなり、主にテレビ局や外部プロダクションが製作した映画を配給するようになります。
しかし、その後も日本映画界や興行界のトップに君臨し続け、現在に至っています。
東映や松竹は、今では二社の売上を合わせても東宝の約半分という状況です。
映画でも劇場でも、小林は娯楽をより多くの大衆に楽しんで頂くため料金を安くしたほか、観客目線の細やかなサービスを徹底させました。
劇場内の掲示の文字を読みやすい明朝体に改めたり、方向指示の矢印も誰にでもすぐわかる手の指の形に変更したりと
「よい設備で快適に、面白い芝居や映画を楽しんでもらう」
ことに、一貫して取り組みました。
ちなみに日本で初めてブロードウェイミュージカルを上演したのも東宝でした。
事業の細部まで「お客様本位」の精神を行き渡らせた小林ですが、おそらくはお客様を笑顔にさせること自体が大好きだったのでしょう。
「儲かる事業ではなく、大衆の喜ぶ事業を」
このような言葉を小林は残しています。自分の発想で誰かが喜び、その瞬間の楽しさをほかの誰かと共有する。
日本の文化・芸術の柱を創ったのは、一介の文芸青年だった小林の純粋な思いだったのかもしれません。
―■ホテルビジネス―
小林がホテル事業においても出色の業績を残しています。
1938に東京に「第一ホテル」がオープンされます。これが日本初のビジネスホテルとなります。
敷地一杯にビルを建て、シングルルームを主体として面積を効率的に最大限活用し客室数を確保。
ターゲットを出張者に絞り豪華な部屋や宴会場は作らない。
そして料金は手頃な値段に設定、東京-大阪間の寝台列車の料金と同等にしました。
その先進性は引き継がれ、東京オリンピックが開催された1964 年には大阪新阪急ホテルを開業、時代と大衆のライフスタイルに適応したホテル経営を行っていきました。
小林はゆとりある生活こそが大衆の理想のライフスタイルであると考え、より多くの人が楽しめるような仕組みを作ることに全力を注ぎました。
ビジネスホテルのように、質を落とさずコストを抑え、提供価格をできるだけ安く抑えた形でのサービス提供をどこまでも拘ったのです。
―■すべては一本の鉄道から始まった―
昭和後期、小林は近衛文麿に接近し、第2次近衛内閣で商工大臣となります。
次官は現安倍首相の祖父に当たります岸信介です。
しかし両者は対立し、後に双方とも辞職に追い込まれます。
終戦後小林は第2次近衛内閣で商工大臣を務めた経歴から公職追放となりますが、後に追放が解除され、東宝の社長に就任します。
1957年、心臓性喘息のため急逝。享年84歳でした。
なお子孫にはサントリー3代目社長の鳥居信一郎、元テニスプレーヤーの松岡修造らがいます。
「私鉄経営モデルの祖」と称される小林は、もともと鉄道事業を活性化するために不動産事業を展開しました。
とは言え不動産という「モノ」を作ったというより、不動産で「コト」を作ったと言えます。
その「コト」とは住、食、娯楽というライフスタイルです。
小林のビジネスには常に「お客様」という相手がいました。
「お客様のために、お客様目線で」どこの会社でも耳にタコができるほど言われていますが、実際に実行し継続できる企業はほんの一握りではないでしょうか。
お客様のためには、時に瑣末で儲けの乏しい業務もやる必要がありますし、よりコストが低く、より高品質で、より新しい商品やサービスに常に頭を絞らない時もあります。
自分ではない誰かに対して想像を徹底する。
その意味で経営とは常に「我」を捨て去る「去私」と「利他」の営みなのかもしれません。
わがままの対極に位置する姿勢です。「我を去る」のは、時には辛さが伴います。
しかし小林は
「儲かる事業ではなく、大衆の喜ぶ事業を」
と言い、自らの儲けよりも先に、お客様の利益を想像し、鉄道、家、そして娯楽と、これらがある暮らしの素晴らしさを大胆に描き、語ったのです。
鉄道、家、娯楽と人との「関係」を創造したのです。
ある事業が人を幸せにできるとすれば、この関係が築かれた時でしょう。
大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)も、阪急グループとは比べものにならないぐらいの規模ですが、創業から目指してきた
「テナント様の成功こそ私共の成功」
の信念を軸に、「人と大禅ビルとの幸せな関係」を今後とも追求していきたい所存です。