―「不動産」と「人」との幸せな関係とは?―
阪急グループ創設者・小林一三①
先日、所用あって熊本にいきました。
久しぶりに乗る九州新幹線は幸いにして人も少なく、自由席にゆったり腰掛け流れ行く風景をぼーと眺める。
駅から発進、博多から離れるに従い、風景も商業街から住宅街、高層ビルからマンション、更に山々を挟んでから田んぼの広がる田舎風景や、一戸建てが集まるニュータウン区画。
様々な姿形の不動産が織りなす沿線の面貌の移り変わり。
そして帰路にて博多に戻れば、夜の街。
JR博多シティやマルイといった百貨店の灯火が煌めき、星の数ほどの居酒屋やレストランに人が溢れかえる。
電車から見えるこのごくごく当たり前の風景も、実は日本発祥なのはご存知でしょうか?
キーマンの名は「小林一三(こばやし いちぞう)」。
あの阪急阪神東宝グループの創設者です。
阪神電鉄、阪急百貨店、東方、そして宝塚歌劇団。皆彼の手による事業です。
昭和の財界の一角を成した山梨生まれの事業家で、鉄道と不動産でもって、日本人の近代的なライフスタイルを創った男です。
今回は彼について紹介してみたいと思います。
■文芸に遊ぶ青年
小林一三は1873年に山梨県の富商の家で生まれました。
19歳の時に慶應義塾を卒業し、三井銀行の大阪支店で働き始めます。
いいとこのお坊ちゃんで、勉強も卒なくこなせた当時の小林は、もともとはビジネスに対して興味はなく、むしろ文学に傾倒していました。
機関紙の編集に携わったり、小説を書いたりしていました。
なかなかの腕前だったようで新聞に連載されるほど人気だったようです。
更に大学の寄宿舎に近い麻布に芝居町があったことから、芝居にも興味をはじめ通っていました。
文芸にのめり込む小林は、多少の自信も持ち合わせながら、自分の実力を活かせる業界はやはり新聞社だ!
として就活を始めますが、色々巡りが合わず結局銀行のサラリーマンになります。
サラリーマンになった小林は、特に銀行業に興味があったわけでもなかったため、仕事は仕事としてこなし、相変わらず小説を書いたり、夜は花街に繰り出したりと、のんびり充実した社会人生活を満喫していました。
そんな悠々と愉しむ彼のところに、岩下清周(いわした きよちか)という男が上司として赴任してきてから、彼の生活は一変します。
岩下はもともと三井物産でパリ支店長まで務めあげたバイタリティ溢れる商売の豪傑、大阪財界に君臨していた人物です。
岩下のもとで小林は否応なしに仕事に巻き込まれ、一変して仕事漬けの日々を送るようになります。
商売の面白さに目覚めていくのもこの時でした。
その後岩下は三井銀行の支店長を辞め、1897年に北浜銀行(今の三菱UFJ銀行の前身の一つ)を設立します。
投資型銀行を目指し、紡績、電気、ガス、建設、製菓などあらゆる業種の企業に積極的な投資や融資を仕掛けていきます。
トヨタの父である豊田佐吉、森永製菓の創業者の森永太一郎、大林組の大林芳五郎など、その人に可能性ありと感じれば岩下は金銭の人脈に亘り応援を惜しまなかった。
さて、快刀乱麻のごとく己の事業街道を爆進するかつての上司・岩下は小林を誘います。
「一緒に事業をやらないか」と。
小林は当時34歳、いい歳の男です。
三井銀行の東京本店の主任まで出世し、世帯も持っていました。
しかし小林は岩下の誘いに乗り、会社を飛び出したのです。
彼の波乱人生はここから始まりました。
■事業才覚の開花
岩下の情熱に当てられ安定したエリート街道から飛び出した小林。
大岩下が設立する予定の証券会社の支配人になるべく、1907年に大阪へ赴きます。
そんな矢先、経済恐慌が日本を襲います。
証券会社の話はたち消えになり、小林は早速失業してしまう。さてどうするか。
その頃小林は、ある鉄道事業の話を耳にします。
大阪梅田から箕面・宝塚・有馬方面への運転を行うことを目的に進んでいた「箕面有馬電気軌道」の建設事業です。
ただ、恐慌に見舞われ全株式の半分も引き受け手がないという苦境に追い込まれていました。
それに、この路線は既に発展している都市間を結ぶ鉄道ではなく、梅田から農村地帯を経ての紅葉や温泉といった観光名所を結ぶ路線でした。
「観光のためだけだと電車では利用者が少ないのではないか?」
「田園地帯を通る路線なんて、儲かりゃしない」
当時は誰もが鉄道開業に対して消極的でした。
しかし、小林は果たしてそうなのかと、実際に現場を見にいきます。
池田と梅田の間の予定線を実際に歩き、目にしたのは都会では見られない、空と水、山と緑に溢れた田園風景でした。
「なんて素敵な場所だ。人が増え続ける大阪市内の狭苦しい住宅よりも、もっと自然豊かで広々として空間に人は住みたいのではないだろうか?」
「だったら、電車で乗客を創ればいい」
小林は鉄道事業に有望性を見出します。
観光地を結ぶだけの手段としての鉄道ではなく、人がより気持ちのよい暮らしができる住空間の開拓と、鉄道を結びつけたのです。
彼は岩下を口説き落とし、北浜銀行に株式を引き受けさせ、更に岩下に初代社長を引き受けさせ、自分は専務に就任します。
さらに、出資者に事業を売り込むために、事業展開を説明するPR冊子を作ります。
名付けて「最も有望なる電車」。
機関紙発行にも携わった文芸青年らしい彼の発案で、これが日本初の鉄道PRパンフレットとなりました。
1910年に開業後、下馬評とは打って変わり、すぐに営業収入は倍々に成長。
小林は実質的な経営者として矢継ぎ早に手を打ちます。
まずは沿線通過予定地の沿線土地の買収し、郊外で宅地開発を行います。
なんとこれを割賦販売による分譲販売を始めます。
明治時代の頃はサラリーマンなどが住宅を購入するための住宅ローンの制度が無く、持ち家は資産家など一部の層に限られていた時代でした。
誰もがマイホームの夢を実現できるように――小林は現在の住宅ローンの原型ともなる販売の仕組みを考え出します。
「頭金として売値の2割、残りを10年間月賦で払い込むと住宅の所有権を移転させる」
当時は大変珍しく、今までマイホームに手を出せなかったサラリーマンも、豊かな暮らしを手にする機会を与えました。
更に、今では当たり前となっている駅の有料広告を始めたのも小林でした。
電車の中吊り広告は彼の発案です。駅、鉄道、そして電車自体を一つの大きな広告媒体に見立て、余っている空間に付加価値をつけて販売したのです。
また、新しい住宅地を開発するにあたり家屋にもこだわりました。
土地が豊かな郊外の田園地帯の強みを活かし、長屋ではなく広い区画をふんだんに活用した一戸建てを建てていきます。
さらに石油ランプでの生活も珍しくなかった時代に電灯の設備も用意しました。
今で言うところの「オール電化のライフスタイル提案」でしょうか。
流石にオールではありませんが、ワンランク上の上質な暮らしを、誰でもができる時代の先駆けを、小林は一本の鉄道から膨らませたのです。
ユニークなアイデアを縦横無尽に絡ませたこれらの方法は見事に功を奏し、住宅は売り出してほどなく完売。
沿線住宅地の開発が更に増え、鉄道利用者も増やしていったのでした。
「郊外に住宅地を開発し、その居住者を市内へ電車で運ぶ」
鉄道事業の経営モデルの基礎を小林は創り上げたのです。
阪急電鉄の始まりでした。
■日本を代表するエンターテイメント事業「宝塚」
人が増えるところに、商機あり――
この原則はいつの時代に当てはまるように思います。
人が集まりさえすれば、商売は作れる。
そして人がどこに集まっているか?それは小林の駅と鉄道沿線でした。
鉄道開業して間もなく、彼は箕面に動物園、宝塚に大浴場「宝塚新温泉」を作ります。
そして大正に入り1914年、あの「宝塚歌劇団」が小林の手によって誕生します。
今や日本のみならず、海外にまでファンが絶えないこの事業も、実は事業の失敗から生まれた産物でした。
鉄道利用者の増加を狙って開設した「宝塚新温泉」の目玉は屋内プールだったのですが、「屋内プールの水は温水にしないといけないことを知らなかった」「時代的に男女一緒には入れない・見学できない」といった要因が重なり、事業としては失敗し閉鎖されてしまいます。
無用の長物となってしまったプールの周りを歩きながら、小林が頭を絞ります。
思いついた次の一手は自分の原点とも言える「芝居」でした。
プールの浴槽と見物席を客席に、脱衣所のあった場所を舞台に仕立て上げたのです。
さらに、お客様を引き付ける最適な演目を考えました。巷で話題になっていた三越の少年音楽隊に着想を得て、彼はふと思います。
「女の子だともっと可愛いのでは?」
鉄道会社の経営者は、秋元康もびっくりのアイドルグループのプロデューサーでもあったのです。
宝塚歌劇団の前身、「宝塚少女歌劇」の誕生でした。
公演は新聞に取り上げられ、連日満員の好調なスタートを切ったのでした。
沿線宅地と観光地の開発、斬新なプロモーション、そしてエンターテイメント。
小林のアイデアはそのまま乗客の増加に繋がり、1918年に社名を阪神急行電鉄に改めます。
日本の経済史に初めて「阪急」の名が登場し、「鉄道沿線は阪急グループの聖地」と言わしめるほど、小林の事業は急行電車のごとく発展を遂げていったのです。
(つづく)