―舞鶴公園ものがたり⑤―
■発掘!鴻臚館
鴻臚館は、都が置かれた平安京、畿内への玄関口である難波、そして玄海灘に面した筑紫の三カ所に造られたと史料研究では分かっていました。
しかしながら、平安京の鴻臚館を除いて、その場所は長らく不明となっていました。
筑紫の鴻臚館の位置は、当時は博多部の官内町(福岡市博多区中呉服町付近)と長らく信じられてきましたが、
大正時代に入り、九州帝国大学医学部教授の中山平次郎が、万葉集の記述などから筑紫館(鴻臚館の前身)の位置を福岡城三之丸跡付近と推定しました。
さらに中山氏は、1915年に行われたどんたく祭期間中に、一般市民向けに開放されていた福岡城跡の陸軍二十四聯隊の敷地内に入りました。
そして、被服庫、武器庫、火薬庫付近を調査、夥しい量の瓦を採集し、自らの推論を裏付けました。
終戦後、福岡城跡の広大な敷地を活かした総合スポーツ施設の開発が進み、また福岡高等裁判所合同庁舎の施工も行われました。
開発を先行した結果、1957年には福岡城跡が国史跡の指定を受けたにも関わらず、本格的な発掘調査も遺跡保護もなされなかった経緯があります。
鴻臚館の本格調査は1987年まで待たなくてはいけません。
もともと平和台球場外野スタンド改修に関わる福岡城跡の事前発掘調査を予定されていました。
しかしながら、調査開始の当日のうちに鴻臚館跡の遺構、中国産、イスラム産の陶磁器、
ペルシャガラスが予想を超えて大量に出土し、関係者一同を驚愕させます。
ここに中山平次郎の鴻臚館の福岡城三之丸説は考古学的に実証され、翌年から市教育委員会による調査が開始されるに至ったのです。
■ところで「史跡」とは?
昭和62年の発掘調査から15年を経過した頃から、やっと、といったところで鴻臚館跡の史跡指定が議論されるようになります。
ところで「史跡」とはなんでしょうか?
言葉の史跡は、一般的に歴史上重要な事件や施設があった遺跡を指します。
ところが、文化財保護法といった法律において、史跡とは
「歴史上または学術上価値が高いと認められ、保護が必要文化財」
の一種別として法的に規定されています。
そして史跡に指定されるかどうかは大変重要です。
なぜなら史跡指定を受けられれば、維持管理面で行政機関からの予算・支援を得られるようになり、また観光的なメリットも期待できるからです。
鴻臚館の全容の解明までまだ距離があったものの、まとまった面積で遺構地形・構造が推定可能になってきたため、
史跡指定の機運の高まりに繋がっていきました。
それを受けて文化庁に国史跡指定を申請、2004年にめでたく史跡指定を受けるに至ったのです。
その際指定名称については、「大宰府鴻臚館跡」が適当ではないかとの見解も見られましたそうです。
しかしながら、既に特別史跡の指定を受けていた大宰府との混乱を避けるため、大宰府をつけず単に「鴻臚館跡」とすることに落ち着きました。
また史跡の申請地は、こちらも既に史跡指定を受けている「福岡城跡」の範囲に含まれていたため、
鴻臚館を改めて史跡指定する必要はないのではないかという議論もあったようです。
しかし、古代日本の外交窓口であった鴻臚館と、近世福岡藩の政庁であった福岡城とでは、遺跡の性格が全く異なる点、
古代外交や貿易における鴻臚館の歴史的ポジションの大きさからみて、
「鴻臚館跡」単独としての史跡指定は十分な意義を持つ点から、史跡の二重指定が実現しました。
極めて特異な事例と言えるでしょう。
■鴻臚館のもう一つの顔
鴻臚館は、中国・朝鮮からの使節、商人が来航するとこれを臨検し、朝廷に報告、使節を滞在させ衣食を提供していました。
使節が上京する際には、国司によって瀬戸内海を通って護送され、難波の鴻臚館(難波館)に一旦滞在します。
更に入京した使節は都の客館(平安京であれば鴻臚館)に滞在、接待を受けるとともに天皇に謁見します。
その任を終えると筑紫の鴻臚館に戻り、帰国するという流れをたどっていました。
逆に、日本から中国・朝鮮に派遣された遣唐使・遣新羅使はここで船の設備を整えつつ、風待ちに使っていました。
鴻臚館は貨物取引や情報交換の役割も兼ねていたため、いわば
出入国管理+税関+宿泊+迎賓+外交+貿易
の機能が一体となった国家の重要な対外施設であったと言えます。
一方で鴻臚館には、もう一つ機能を持たされていました。
それが「国防」です。
これは新羅との関係の冷え込みが背景にあったと考えられています。
「警固式」という防衛マニュアルを定め、博多湾に船100隻以上を配備して不慮に備える防衛体制を敷くことを定められています。
新羅末期の9世紀後半になると新羅海賊による事件が起き、鴻臚館には兵員が配置され、甲冑が常備されていたそうです。
鴻臚館の防衛施設は、895年に「博多警固所」という名称で登場します。
福岡市中央区天神の警固神社の名前の由来でもこの場所は、1019年に大陸の女真族襲来事件の激戦地さえなったぐらいですから、
鴻臚館は国防を担う防衛施設として顔が伺われます。
アジアへの玄関と言えば聞こえはよいですが、異邦と交わる境界では対立・騒乱のリスクも同じく孕むのは昔も今も変わらないのかもしれません。
■鴻臚館の終焉
前回のコラムでは、平安末期に至って鴻臚館は廃絶していったと書きました。
ここでは、近年の研究成果も交えてもう少し詳しく見ていきましょう。
従来の研究によれば鴻臚館の最後の記録は、寛治5年(1091年)に『大吉祥陀羅尼経』という経典の扉書きに記された
「宋商の季居簡が経典を書き写した」
が最後の記録とされていました。
しかし、近年ではこれは筑紫の鴻臚館ではなく、京都の平安京鴻臚館を指す記述であるのが定説となっています。
筑紫の鴻臚館を示す最後の記録は永承2年(1047年)、平安時代の私撰歴史書『扶桑略記』内の
「大宋国商客宿房の放火犯四人を大宰府が捕縛し、宣旨によって禁獄に処した」
であるとされています。
この「大宋国商客宿房」が筑紫の鴻臚館であると考えられています。
鴻臚館跡からは火災や建て替え時の瓦、木材などの廃棄場に使われていた堀が発見されています。
ある層までは廃棄物が多く発掘されましたが、
それ以降は人為的な廃棄行為が認められない自然な堆積層となっています。
つまり殆ど遺物が出土しなくなったのです。
その境目がおよそ11世紀後半であり、史料の記述と突き合わせても符合します。
鴻臚館は11世紀半ばくらいからその機能が失われていき、活発な活動が見られなくなったと言えます。
鴻臚館の廃絶後、池への姿を変えた堀は後に福岡城築城の際に埋め立てられてしまいます。
しかし、発掘調査で池だった箇所から15世紀の室町時代の陶磁器などが大量出土しています。
梵鐘の鋳造遺構や墓と思われる地下式横穴も発見され、中世には小規模な寺院が建てられていたと推定されています。
鴻臚館がなくなっても、人の活動も消え去ったわけではなかったのです。
方や博多の遺跡群の遺構・遺物の出土が激増していきます。
貿易の拠点が鴻臚館から内陸の博多へと移ったことがわかります。
このように鴻臚館は、飛鳥時代から平安時代後半まで、まさに日本の古代を通じて対外交渉の窓口であり続けた唯一の施設でした。
古代日本最大規模の国際交流拠点が、まさにここ舞鶴に存在し、ダイナミックな歴史と人のドラマを紡いでいたのです。
室町時代の連歌師・宗祇は「筑紫道記(つくしのみちのき)」では
「前に入海はるかにして、志賀の島を見渡して、沖には大船多くかかれり、もろこし人もや乗りけんと見ゆ、
右に箱崎の松原遠く連なり、仏閣僧房数も知らず、人民の上下、門を並べ軒を争ひて、その境四方に広し」
と賑やかな博多湾の風景を詠んでいます。
博多一帯の繁栄の支えとなったのは、間違いなくここ、鴻臚館であり、舞鶴だったのです。