―舞鶴公園ものがたり④―
■古代の「グローバリゼーション」
鴻臚館について語る前に、まずは古代という時代の特性について、現代の私たちだからこそ持ちがちな先入観を改める必要があります。
それは「国」という概念です。
国は、国境、民族、文化、法制などによって明確に区切られ、
集権的な行政府による一元管理下にあるブロックといった枠組みとして、今の私たちによって認識されています。
国同士の間には明確な国境が引かれ、移動にはビザとパスポートが必須で、制度が徹底されています。
しかし古代における国際交流は、私たちの想像以上に活発で自由だったのです。
列島各地の権力者は、自らの共同体存亡のために、めいめい大陸の諸国と結びつき交流・交易を行っていました。
渡来人、留学生、密貿易商人、倭寇などが往来・定住し、
時には列島の権力者たちのブレーンとなって政治を輔ける働きをしていました。
国家と民族の枠を越えて、多彩多様なアジアンネットワークが交錯しあっていたのです。
国よりも先に、人同士、地方同士の国際交流があり、統制された一つの国・民族だけでは捉え切れない膨大な多様性が、古代の東アジアの面貌です。
一例を挙げますと、日本がまだ倭と呼ばれていた3から4世紀に、倭人たちが国際交流の主要な拠点としたのが北部九州だったのですが、
福岡市の西新町遺跡からは、北部九州だけでなく、朝鮮半島からの渡来人も混在していた痕跡が確認されています。
更に、板状鉄斧という鉄素材も発見されていました。
朝鮮半島からの輸入品とされています。
当時の朝鮮半島南部には、新羅と百済に囲まれた「加耶」と言う地域が存在し、鉄の供給地として知られていました。
日本との交易の歴史は古く、弥生時代にまで遡ります。
鉄を携えた多くの渡来人が列島にやって来ていたのです。
その痕跡の一つが西新町遺跡なのです。
5世紀になると渡来人の数も更に増加し、北部九州のみならず、近畿や東国にまで移動・居住範囲が広がっていきます。
■舞鶴最古のスポット・鴻臚館
そのような世界観の中に、鴻臚館を引き据えて役割を見ていきましょう。
「鴻臚館」の前身である「筑紫館(つくしのむろつみ)」が初めて史書に登場するのはとは今からおよそ1300年前の飛鳥時代です。
日本書紀には新羅の使節が、金銀銅鉄などを珍しい物を献上し、一行うぃ大宰府の筑紫館で接待したという記述が残っています。
大宰府政庁の迎賓館だったわけです。
その後9世紀の平安時代になって中国風の「鴻臚館」という名称に変わりました。
「鴻」とは「大きな声」、「臚」とは「伝える」を意味します。
このような迎賓館は、平安京(京都)、難波(大阪)、そしてここ筑紫(福岡)の3ヵ所に設けられたのですが、
福岡はその中で唯一遺跡が確認されています。
以来約400年の間、海外の使節団、国際商人らを迎え入れ、入国や貿易の管理、接待、宿泊の場所として、
また日本からから海外に派遣する使節が旅支度を整える場所として活躍してきました。
まさしくアジアの玄関口であり、越境者たちの情報交流センターのでもあったのです。
一方で視点を変えて注目すべきは、鴻臚館は「官の施設」である点です。
前述した通り、当時の日本と東アジアとの結びつきは一対一よりも、自由かつ多元的な関係を特徴としています。
日本の王権、つまり中央政府―朝廷からすれば情報力、経済力強化のため、管理・統制のうえ、利益を独占するほうが上策なのです。
当時先進国である大陸との交易自体が、自身の政治力に直結する重要な要素でした。
どこもかしこも国際貿易を通じて力をつけられては、政権安定のリスクになり兼ねません。
つまり鴻臚館は、朝廷の政権の対外交流の独占が目的にあったのです。
大宰府の役人が博多湾に貼入った商人の来着理由を確認し、朝廷に報告します。
そして彼らに対し宿と滞在費用が提供され、滞在中の安全を保障します。
そして最も重要なのが、運んできた商品に対して「官司先買」、つまり朝廷が優先的に買い付けを行い、
残りは大宰府監視のもと民間交易を許したのです。
交易全体を管理下に置くことで、メリットを最大限国家が確保できるようにし、対外的な窓口の一元化を図ったのです。
■朝廷の苦労
とは言え、「上に政策あれば下に対策あり」ではありませんが、管理に服しない人間も必ず出るもので、
筑前国司だった宮田麻呂という人物が、公的な立場を利用し新羅商人の貨物を横奪しようとしたり、
官司先買が定められているにも関わらず、王族・貴族たちが私的に輸入品を買い漁ったり、
地方豪族・豪商たちが大宰府役人に賄賂を贈り、貨物を横流しして貰ったり、大宰府の公金まで流用して買い込んで、それを都に流して差額で儲けたりするなど、横領・密貿易に関する記述も残っています。
平安時代に度々禁令が出され、貨物船が来る度に朝廷から「唐物使(からものつかい)」を大宰府に派遣し直接管理に当たらせるなど対策が取られてきました。
現場管理に難しさが伴うのはいつの時代も変わらないのかもしれませんね。
やがて朝廷は、武家の台頭とともに実権を失っていき、時代の変転とともに鴻臚館もまた役割を終え、平安末期に至り廃絶してしまいます。
■鴻臚館と遣唐使の関わり
鴻臚館の歴史を語る上で「遣唐使」の存在は特筆すべき点でしょう。
というのも日本が国家として実施した最大の外交事業だったからです。
遣唐使の派遣は630年の第一次から、838年の第十七次をもって終了します(実際に入唐を果たしたのは15回)。
約200年間にわたって外交と文化・技術・仏教の受け入れにおいて中心的な役割を果たしてきました。
船が日本を発つまでの航路はおおよそ難波の三津浦から発し、瀬戸内海を通ってから筑紫の博多大津に寄港します。
そして鴻臚館で待機して、順風を待って出航します。
一回の遣唐使の派遣人員は、大使、副使、留学生、留学僧、水夫まで100~500人以上、4隻の船に分乗するのですが、
この規模の人員を滞在させ、食事の面倒までみるわけですから、鴻臚館の規模も決して小さいものではなかったと推察できます。
鴻臚館から大陸に旅立った者の中に、歴史に名を留める影響ある人物も多数います。
・『貧窮問答歌』で有名な奈良を代表する歌人の山上憶良
・学者から右大臣にまで出世した政治家の吉備真備
・唐の玄宗皇帝から慰留され、異国の地で生涯を終えた阿倍仲麻呂
・真言宗開祖の空海
・天台宗開祖の最澄
古代から中世の東アジア交流史において、彼らの足跡と今の日本に与えた影響を併せて考えても、
鴻臚館の歴史的価値は驚くべきもので、時代を駆動するエンジンだったと言ってもよいでしょう。
■舞鶴の価値を見直す
鴻臚館が建っていた場所は昔、赤坂山だった所で、その麓は赤い頁岩でできた加工のしやすい岩山でした。
雨で地表がはがれると、赤い岩肌を露出したそうです。
「赤坂」という地名がここから生まれたという。
また、当時の海岸線は今よりもずっと奥に迫り、西公園が建つ荒津山までが海岸線だったと古地図からも確認できます。
礎石が打ちやすく、かつ海岸に近い。まさに好立地。国家施設の建設地に選ばれるほどの一等地だったわけです。
このように、舞鶴の地も遡れば千年以上も昔の人たちがここに価値を見出し、役割を持たせ、栄えさせたのです。
この地と人との関わりの歴史は、この地の将来のポテンシャルに対しより一層の自信を感じさせてくれます。
同時に今日の舞鶴の躍進の裏には、価値を今に繋いでくれた先人たちの存在があったはずです。
この地で仕事できる有り難さを噛みしめながら、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)は、レトロさでは鴻臚館に遠く及ばないものの、
老舗の暖簾を掲げる地元の一企業として、今後も舞鶴の未来にささやかながら貢献させて頂きたく存じます。