―舞鶴公園ものがたり①―
■人と不動産の在り方
不動産は古くより投機の対象として、実需からかけ離れた場所でしばしば札束の空中戦が行われます。
人類の近代経済史に最も影響を与えたファクターの一つに数えられ、それだけ人の欲望を一身に受け止めたのも、また不動産と言えるでしょう。
世の営みと言えばそれまでですし、ドライなマネーゲームを否定すべき立場でもありませんが、
私たち大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)はやはり、人と不動産との確かな交わりの中に、不動産の価値を見出す方が性に合っています。
それは住む家であったり、働くオフィスであったり、買い物するデパートであったり、遊ぶ遊園地であったり・・・
不動産とともに人がいる、人とともに不動産がある、そうした光景に人と不動産の幸せな在り方があるように思います。
建て替えラッシュが進む東京を中心に、すわバブルの再来か?崩壊も近いか?
と、目下日本の不動産業界はにわかに人心浮き立つ様相です。
福岡の再開発プロジェクト「天神ビッグバン」もいよいよ始動間際。結構なことです。
ちなみに大禅ビルは来年に空室が一気に3つも空く予定。世間の大変動に目配せする余裕もなく、
地方都市のレトロオフィスビルの踏ん張りどころと心得て、地道な営業に邁進中です。師走を満喫中であります。
しかし、前後左右忙しさに包囲された今だからこそ、私たち不動産に関わる者は今一度、人と不動産との在り方について思い馳せてみてもよいではないでしょうか。
目の前の儲けを追うのは大事です。
ただその儲けも、人と不動産とのご良縁を取り結べ時に始めて押し頂くもの。
世の中における、私たち不動産に関わる者の価値はそこにあります。
初心を忘れない初心者として、都度自分たちの価値創出の原点に立ち返ることは、取りも直さず将来の事業への確信をより強くしてくれます。
今回は、そうした人と不動産とが紡いできた物語を、大禅ビルのある「舞鶴」の、その発祥の地でもある「舞鶴公園」の歴史を引きながら振り返ってみたいと思います。
■「舞鶴」から生まれた「福岡」
舞鶴の発祥は舞鶴公園と言いましたが、厳密は違います。
「舞鶴」という地名の由来、それは我らが「福岡城」!
約400年前、関ヶ原の合戦で徳川家康につき戦功をあげた黒田官兵衛・長政親子が7年もの歳月をかけて築城しました。
残念ながら今では城壁、城門、櫓、天守閣の礎石くらいしか現存していませんが、数百年の時を経てもなお朽ちることなき威容を十二分に留めています。
当時は総面積80万㎡、東西1km、南北700mの規模を誇った日本随一の名城でした。
城の名前は、官兵衛の曽祖父の代から黒田家の故郷である備前国邑久郡福岡(岡山県)から取り「福岡城」と名付けられ、長政は「福岡藩」を立藩、初代藩主となります。
那の津の海側から城を望むと、翼を開き雅に舞う鶴の姿に見えたことから「舞鶴城」という二つ名が福岡城に与えられたのです。
舞鶴の美しい地名はここに由来します。
ですから、福岡城は舞鶴の源流であり、舞鶴の地は紛れもなく「福岡」誕生の地でもあるのです。
■舞鶴から福岡への系譜
長政は築いた城下町の起点となった場所が現在の舞鶴三丁目の付近。
まさに大禅ビルの建っているエリアに当たります。
当時は「本町」と呼ばれ、名前の意味する通りここを中心に福岡藩で最初の城下町が形成されていきます。
つまり、福岡の歴史の始まりの地だったわけですね。
それまで筑前では古代から続く国際商都・博多が飛び抜けた存在感を発揮していましたが、
黒田入り以後「福岡」がポッと歴史の表舞台に躍り出て、「商業の博多」と並び立つ「政治の福岡」としての街の性格を創っていくのです。
もちろん商業も賑わいを見せ、本町と、中名島町、上名島町、呉服町、大工町、箕子町の6つの町は「六町筋」といって、福岡の目抜き通りとして賑わっていきます。
■福岡の戦後復興の先駆け
今の舞鶴公園上で展開されていた福岡城と黒田家を巡るドラマの数々は、広く地元民に膾炙されている物語です。
一方、近代においてこの場所が果たした役割をご存知の方は少ないのではないでしょうか。
時代は遡って1945年6月19日、福岡大空襲。
マリアナ諸島を発った239機もの米軍のB-29爆撃編隊は福岡に襲いかかり、博多、天神を中心に焼夷弾の雨を降らせます。
市人口の4割に当たる6万人が罹災、死傷者数は2,000超に及び、福岡市は一夜にして市街の3割が灰燼と化しました。
当時の陸軍兵営が置かれていた福岡城跡もその難を逃れられませんでした。
同年の8月15日に敗戦を迎えたのは、皆さんご存知の通りです。
戦後の焼け野原日本は困窮を極めました。
日本の歴史における最底辺、まさに亡国の淵に立たされていた苦難の時代だと言っても過言ではありません。
しかしそんな中、福岡市はいち早く歩き出します。
スポーツによって市民に明日へ進む力を燃え立たせ、明るい平和な社会を建設しようと、市は敗戦後わずか2年目の1947年に市民運動場を造成します。
その場所が今の舞鶴公園でした。復興祭に合わせて市民運動会を開催します。
運動場完成を機に、国民体育大会を誘致しようという話が持ち上がります。
国内の誘致に当たっては、時の三好市長と市議会が積極的な誘致活動を展開、その甲斐あって第三回国体の開催地は福岡市に決定、市民が沸き立ちます。
こうして舞鶴公園には、陸上競技場やサッカー、ボクシング、ラグビーなど各種目を行う競技施設の工事が急ピッチで進み、1948年に完成。
完工式が盛大に催されました。
この時、三好市長から、福岡市復興のシンボルとして「福岡平和総合運動場」と命名され、福岡市は全国でも有数の総合運動場を持つようになりました。
国体開催を目前に控え、提灯や小旗が飾られた福岡の街へ、全国の選手団が続々と到着。
そして10月29日、小雨の降る平和台陸上競技場に、若き選手たち1万9千人余り集い、数万の観衆がスタンドを埋め尽くす中、熱戦の6日間の幕が切って落とされたのでした。
メインポールには、戦後初めて掲揚を許された日章旗が翻ります。
戦後わずか3年、未だ出口の見えぬ灰色の戦後下に開催されたこの国体は、一体どれほどの福岡人に生きる希望と勇気を与えたことか。
自らの故郷を背負った若者たちは、一体どんな気持ちで競い合い、彼らの声援を叫んだ人々に、一体どんな思いが去来したのでしょうか。
福岡復興のはじめの一歩が踏み出された地、それがここ、舞鶴公園なのです。
■舞鶴公園の価値
以上にご紹介させて頂いたように、福岡市民ならばよく見知っている舞鶴公園。
しかし、公園になる前から、私たちの想像を超えて実に深く、長く人々との紡いできた歴史があります。
舞鶴公園は福岡の歴史の目撃者であり、同時に福岡の歴史に最も影響を与えた不動産の一つでもあります。
もし舞鶴公園がなければ、舞鶴地区の価値、それどころか福岡の価値すらも半減するでしょう。
それだけ福岡の価値を構成している多くのファクターが、舞鶴公園と深いゆかりがあると言っても過言ではありません。
舞鶴公園が人と紡いで来た歴史は遥か昔まで遡ります。
であれば、その物語を紐解き、過去と現在を橋渡してゆく試みは、舞鶴公園の価値を再認識し、しいては舞鶴地区のブランドアップへの貢献に繋がるものにならないだろうか。
そう思い、身近な舞鶴公園について掘り起こしてみたくなりました。
次回も引き続き舞鶴公園をご紹介して参りたいと思います。