舞鶴今昔物語-黒田家と福岡城
■舞鶴一の「古い不動産」
大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)のすぐ近くに、往時の栄光を今に留める福岡城跡がございます。
時代の風雪に晒された荘厳な石垣と櫓が建つ中、蓮・桜・梅といった豊かな花木に彩られ、絶好の観光名蹟です。
それと同時に、四季に亘り憩いの場として市民に愛されています。
400年前、黒田官兵衛が息子の長政とともにこの城を建てた時は、まさかこんなに平和な使い方をされるとはつゆにも思わなかったでしょう。
というのも、城は藩主一同が政治を執り行う福岡の最高行政府であったと同時に、島津はじめ九州全体に睨みを効かせる軍事施設でもあったからです。
堀も入れると約14万6千坪、博多に面した那珂川に1.5キロにおよぶ高石垣が築かれており、川の上流にはいつでも使えるように材木が貯蔵されていました。
更に食糧と武器の貯蔵庫となる櫓が48つもあったと言われております。
櫓の屋根を編んである竹はすべて弓の矢になる竹で、それを結んでいるのが干しワラビでした。
有事の時に戻せば食料になるという、常在戦場の心持ちで実に隅々まで考え抜かれた実戦志向の軍事基地だったのです。
明治に世に入り、1871年の廃藩置県によって1600年以来、約270年にわたって筑前を治めてきた藩主黒田家が福岡を去ります。
1876年に天神町(現・中央区天神)に新庁舎が完成するまで、城内に福岡県庁が置かれ、。
その後日清戦争や日露戦争に出動した歩兵第二十四連隊が置かれました。
1945年の敗戦までは陸軍の施設がありました。
戦後、GHQの将校宿舎建設が計画されていましたが、福岡市が用地をGHQと折衝の後、取得。
「スポーツを通して戦災からの復興を進めつつ、市民に健全な平和社会を提供すること」を目指し、スポーツ施設として整備したのが「平和台陸上競技場」です。
まさに時代を超えたリノベーションですね。
■福岡城の大堀
福岡城もほかの日本の城と同じく、防城設備として堀を持っていました。
福岡城の堀の名残は、明治通り沿いと大濠公園の池、護国神社前の池にわずかに残っているだけです。
しかし、これは埋め立てを経た後で、昔の堀は現在の大濠公園の池の2倍もの広さがあり、城の周りをぐるりと囲む堀もありました。
さらに、赤坂から大名、天神をへて那珂川に繋がる堀もあり、那珂川側は佐賀堀、赤坂側は中堀と呼ばれていたそうです。
福岡城は、大濠公園と舞鶴公園も含める十分広いですが、昔はそれ以上に大規模な城だったのです。
ちなみに、築城当時は山があったのでそこを削って(!)建てています。
その山の名は「赤坂山」と言って、今の赤坂の由来になっています。
またその時に赤坂山には神社があったので、併せて移転しました。
それが天神のド真ん中に建つ「警固神社」です。
城を建てるのに山を削り、神社も移す。
それだけ黒田家が権力と財力を持っていたということでしょう。
■大濠公園も福岡城の一部
福岡で最も美しい公園の一つと言われる大濠公園も、福岡城の防衛を担っていた堀でした。
この場所一帯は博多湾に繋がる入り江で、城下町開発のために官兵衛・長政によって入り江の一部が埋め立てられた経緯があります。
地行の1番丁から5番丁もこのときの埋め立てで生まれました。
明治維新で福岡城が廃城になると大堀の埋め立てが更に進み、大堀と博多湾との水の還流が断たれ、水質が滞り、悪臭を放つようになります。
以来明治にかけてこの大堀を埋め立てる計画がいくつか立てられるようになる中、投資家でもあり、ドイツ帰りの林業博士であった本多静六を中
心に、この大堀を水景公園として再整備する計画が立てられるのでした。
本多博士が福岡城大堀の公園化のアイデアを思いついたのは、実は西公園から大堀を望んだ時でした。
箱崎の千代の松原保存のために福岡に招かれた本多博士は、たまたま西公園に案内された時、山上からは大堀の可能性に心を動かされたと言います。
博士の目には、大堀は美しい湖に見えたことでしょう。
実はその西公園も、歴史を辿れば福岡藩が建てた東照宮が始まりですから、黒田家は福岡城跡と大堀公園と、二つも福岡を代表する景観を残しれくれたことになります。
建物と人が交わり、繋がる歴史とはなんとも面白いものですね。
■城デザイナー・黒田官兵衛
戦国の名将は、築城においても名手でありました。
政治・軍事の中心施設をいかに建築するのかは、国家運営と都市開発のグランドデザインにかかる重要事項でした。
日本の歴史において三大築城名人と称される、そのうちの一人が黒田官兵衛なのです。
彼は以下の城に縄張りや助言を行って関わったとされています。
妻鹿城(1577年):秀吉に姫路城を譲った後に、自らの居城として修復
篠ノ丸城(1580年):信長から山崎1万石を与えられ、自らの居城として修復
大坂城(1583年):秀吉の命により縄張り
中津城(1587年):秀吉から豊前12万石を与えられ、城を築く
高松城(1588年):縄張り
広島城(1589年):縄張り
名護屋城(1591年):築城総奉行として縄張りを担当
梁山倭城(1597年):朝鮮出兵の際の居城として築城
福岡城(1601年):関ケ原の戦いの功績により長政が家康から筑前52万石への加増移封を受け、城を築く
このほかに、日本一の名城と誉れ高い「姫路城」にも官兵衛は関わったとされています。
1580年に秀吉の中国地方の攻略に際し、官兵衛が自らの居城であった姫路城の本丸を献上します。
この時に姫路城に対し、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、さらに三層の天守を建築して近世城郭として大改修が行われますが、官兵衛は改修事業に関わっていたと言われています。
そんな姫路城は今や世界遺産として、世界最大の旅行サイト「トリップアドバイザー」の日本の城ランキングで、3年連続1位に輝いています。
■価値上昇中!舞鶴地区
福岡の物語の代表である黒田家と福岡城跡のほかに、大禅ビルの建つ舞鶴エリア周辺にはまだまだ多くの知られざる物語が残っています。
一般の方からすると博多や天神の陰に隠れて、なんだか目立たない土地だなという印象を受けるかもしれませんが、
物語が生まれるということは、その土地に新しい価値を生むポテンシャルが秘められていると言ってもよいかもしれません。
そして舞鶴及び周辺エリアは、今まさにその価値を上昇させつつあるのです。
理由は3つの側面から説明できます。
一つ目は「歴史・文化ゾーン」。
福岡城跡を始め、古代から近代にかけての福岡の歴史を刻んだ名残りが点在しており、時代の薫りを留めた旧跡・名所が数多く存在しています。
また大濠公園の周辺は、能楽堂、日本庭園、市立美術館が周辺を固めています。
福岡有数の観光拠点、そして歴史に彩られた高い文化性を備えた「ビジネス&カルチャー」エリアとしてのブランドの可能性が舞鶴エリアにあります。
二つ目は「オフィスゾーン」。
天神・博多は商業地区の中心として注目されがちですが、舞鶴エリアの持つ商業機能もかなりの存在感です。
福岡法務局、高等検察庁、裁判所(高等、家庭、簡易)、公証役場(大禅ビル内)、中央区役所、年金事務所、保健福祉センター、法曹関連事務所など法曹・行政機関に加え、
郵便局、銀行(西日本シティ銀行、福岡銀行、北九州銀行)、更にドコモ、東芝、電通、読売新聞、県水産会館が集積しています。
公共交通機関の地下鉄、西鉄バスはいずれも徒歩圏内、更に福岡の中心部・天神へは徒歩15分、
地下鉄で福岡空港へは10分と交通アクセスは抜群、通勤・出張に最適なビジネス環境なのです。
三つ目は「文教ゾーン」。
2014年に新しく設立された舞鶴小中学校がきっかけとなり、舞鶴エリアではファミリー向けマンションの建設ラッシュが進み、子育て世帯が増加しています。
近くには豊かな花木と蓮池に彩られた福岡城跡、市民の憩いの場となっている広大な舞鶴公園、更に博多湾の青い海が広がっています。
緑や水の憩いの場が近くにあるオフィス環境は、都会の中では貴重そのもの。生産性と創造性を刺激してくれる重要なファクターです。
ぜひお越しになりご覧になってはいかがでしょうか。