舞鶴今昔物語-「福岡」始まりの地
建物の歴史を紐解けば立ち上ってくる街の歴史があります。そして街の歴史には、人の生活の記憶が綿々と流れているもの。
過去への振り返りは、今立っている場所の有り難さを改めて気づかせてくれることもあります。
今回は大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)の建つ「舞鶴」の姿を、建物を通して書いてみたいと思います。
■「福岡」発祥の地・舞鶴
そもそも「舞鶴」という地名の由来は何でしょうか。
それは「福岡城」です。
約400年前、関ヶ原の合戦で徳川家康につき、戦功をあげた黒田官兵衛・長政親子が7年もの歳月をかけて築城しました。
今では城壁、城門、櫓、天守閣の礎石しか残っておりません。
しかし、当時は総面積80万㎡、東西1km、南北700mの規模を誇った日本随一の名城でした。
城の名前は、官兵衛の曽祖父の代から黒田家の故郷である備前国邑久郡福岡(岡山県)から取り「福岡城」と名付けられました。
長政は「福岡藩」を立藩、初代藩主となります。
海側から城を望むと、鶴が雅に舞う姿に見えたことから福岡城は「舞鶴城」とも呼ばれていました。
舞鶴という美しい地名はここに由来します。
ここ舞鶴は紛れもなく「福岡」誕生の地であり、福岡の政治の中心だったわけです。
その役割は明治の世に入り、廃藩置県後に福岡県庁が置かれてからも続きます。
実は官兵衛・長政は徳川家康より領地を与えられた後、豊前国中津(大分県中津市)から筑前国(福岡)へ移ったわけですが、初めは今の福岡市東区にある名島に入ったそうです。
当時名島には小早川隆景の名島城が既にありましたが、残念ながら名島の土地は狭く、一国の経済と文化を担う城下町が開発できそうにありませんでした。
そのため黒田親子は名島城を廃城とし、舞鶴に移ったという経緯があります。
今の舞鶴公園に当たる場所で、当時は福崎と呼ばれていました。後に福岡と名付けられる場所です。
名島城は解体されて福岡城の建材となり、一部は移築され名島門として大濠公園と平和台陸上競技場の間に建っています。
長政は築いた城下町の起点となった場所が現在の舞鶴三丁目の付近です。
そこはまさに大禅ビルの建っているエリアに当たります。
当時は「本町」と呼ばれ、名前の意味する通りここを中心に福岡藩で最初の城下町が形成されていきます。
つまり、福岡の歴史の始まりの地だったわけですね。
それまで筑前では古代から続く国際商都・博多が飛び抜けて有名でした。
しかし、黒田入り以後「福岡」がポッと歴史の表舞台に躍り出て、「商業の博多」と並び立つ「政治の福岡」としての街の性格を創っていきます。
もちろん商業も賑わいを見せ、本町と、中名島町、上名島町、呉服町、大工町、箕子町の6つの町は「六町筋」といって、福岡の目抜き通りでした。
ちなみに名島町というのは、黒田家が名島から移ったときに、名島の商人を連れてきたので名島町と呼ばれていました。
上名島町と中名島町があるのに下名島町がないのは、「シモ(下)」というのは商人にとっては景気が悪いと感じるとか。
知ってか知らずか、このような縁起の良い土地を大禅創業の地に選んだ先々代はきっと、強い引きの持ち主だったのでしょう。
■福岡VS博多
黒田家はすんなり筑前入りできたかと言うと、そうではありません。
実は黒田家は博多商人から大変受けが悪かったのです。
博多は古くは飛鳥時代から大陸との貿易拠点として栄えてきたステータスある古都です。
しかし戦国時代を経て、度重なる戦火で荒廃し都市機能が消失しています。
これを九州征伐後の豊臣秀吉が博多の町割り(太閤町割り)と言って、都市区画整備を行い、博多の町を復興させます。
復興事業を通じて博多の有力商人たちは秀吉と友誼を結び、また朝鮮出兵の際に戦争特需として秀吉は博多に莫大な利益を落としました。
ですから博多の商人らは、関ヶ原の合戦では西軍を支持し、東軍の手先だった黒田家の筑前入りを快く思っておりませんでした。
黒田家は全身武装のまま入国、しばらくは現地の有力商人らの説得工作に当たらざるを得ませんでした。
気に入らない新しい主だからといって、そこまで突っぱねられるものなのか?
博多商人には、それだけ自信と実力があったのです。
博多を支えていたのは、商都としての深い歴史と太閤秀吉のパートナーとしての自負、そして圧倒的な経済力。
今のシンガポール・・・と言えば言い過ぎですが、半ば商人たちによる独立自治都市の様相を呈していました。
武家ごときが、何をか言わんや。そうした気質が、武家による強制的な統治を跳ね除けてきたのでしょう。
黒田官兵衛は福崎を福岡に改名する際、博多も福岡に改名しようとしたところ、博多商人が大激怒!
に遭い、やむなく博多の名称を残したそうです。
このため那珂川の西を武家町「福岡」とし、那珂川の東を商人町の「博多」と定め、武家と商人を住み分けるという都市デザインを採りました。
これが今の福博の顔を形作っていきました。
ただ、その博多も鎖国下の江戸時代では、貿易都市のポジションをやがては長崎に奪われ、急速に衰えていくのでした。
■福岡城下町の立役者・大賀宗九
官兵衛・長政親子が豊前国中津(大分県中津市)から筑前(福岡)に移った時、豊前の商人や農民も大勢付いて移っていきました。
その中に中津出身の商人・大賀宗九の姿もいました。
大賀家はもともと武家でしたが、没落後商人に転身した新興商人です。
長崎や遠く大陸の明で国際貿易商として活躍、巨万の富を得ます。
もともと大神の姓を名乗っていましたが、中国人の助言で大賀に改名したとか。
黒田家に付いていった宗九は、博多の商人らとともに福岡城築城や城下町整備を受け持ちます。
新参者の宗九は黒田家から重用されるのですが、これは本人が優秀だったのに加え、秀吉の息がかかっていない商人を用いたかった黒田家の意向も働いたと言われています。
黒田家の引き立てのもと、宗九は飛ぶ鳥を落とす勢いで福岡の筆頭商人としての地歩を固めていきます。
他の博多商人を抑えて福岡藩の御用商人に指名され、更に長政の仲介により徳川家康から値千金の海外渡航の朱印状を受けると、タイやベトナムとの貿易を始めます。
自治体の指定委託業者として調達業務を独占、貿易制限政策(鎖国)の中にあって、政府公認の貿易商といったところでしょうか。
強力な既得権益を手中に収めたとも言えますね。
ちなみに福岡地元のドラッグストアチェーン「大賀薬局」は、大賀家の血筋を今に伝えています。
■価値上昇中!舞鶴地区
黒田官兵衛・長政親子が福岡藩を創った地・舞鶴。
一般の方からすると博多や天神の陰に隠れたなんだか目立たない土地だなという印象を受けるかもしれません。
黒田家が選んだ土地だけあって、ポテンシャルを秘めていることを我々は注目しなくてはいけません。
今まさにその価値を上昇させつつあるのです。
その理由は3つのポイントから説明できます。
一つ目は「歴史・文化ゾーン」。
今回ご説明した福岡城跡を始め、古代から近代にかけての福岡の歴史を刻んだ名残りが点在しており、時代の薫りを留めた旧跡・名所が数多く存在しています。
少し足を伸ばせば福岡で最も美しい言われる大濠公園が広がっており、能楽堂、日本庭園、市立美術館が周辺を固めています。
福岡有数の観光拠点、そして歴史に彩られた高い文化性を備えた「ビジネス&カルチャー」エリアとしてのブランドが舞鶴にあります。
二つ目は「オフィスゾーン」。
天神・博多は商業地区の中心として注目されがちですが、舞鶴エリアは福岡最大の「隠れ商業地区」とってもよいでしょう。
福岡法務局、高等検察庁、裁判所(高等、家庭、簡易)、公証役場(大禅ビル内)、中央区役所、年金事務所、保健福祉センター、法曹関連事務所など法曹・行政機関に加え、
郵便局、銀行(西日本シティ銀行、福岡銀行、北九州銀行)、更にドコモ、東芝、電通、読売新聞、県水産会館が集積しています。
公共交通機関の地下鉄、西鉄バスはいずれも徒歩圏内、更に福岡の中心部・天神へは徒歩15分、
地下鉄で福岡空港へは10分と交通アクセスは抜群、通勤・出張に最適なビジネス環境なのです。
三つ目は「文教ゾーン」。
2014年に新しく設立された舞鶴小中学校がきっかけとなり、舞鶴エリアではファミリー向けマンションの建設ラッシュが進み、子育て世帯が増加しています。
近くには豊かな花木と蓮池に彩られた福岡城跡、市民の憩いの場となっている広大な舞鶴公園、更に博多湾の青い海が広がっています。
緑や水の憩いの場が近くにあるオフィス環境は、都会の中では貴重そのもの。
生産性と創造性を刺激してくれる重要なファクターです。
福岡城自体はなくなりましたが、福岡城跡の周辺は「現代の舞鶴城下町」として益々その存在感を高めています。
ぜひお越しになりご覧になってはいかがでしょうか。