デザイナーたちの物語 竹中藤右衛門
弊社、大禅ビル(福岡市 天神 賃貸オフィス)が行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものです。
■竹中工務店の創業者
さて、本日ご紹介するのはデザイナーというよりも、実業家です。
名前は
「竹中藤右衛門」
日本スーパーゼネコン(鹿島建設、清水建設、大林組、大成建設)の一角、竹中工務店の創業者です。
竹中工務店がこれまで施工に関わった名建築物を挙げると、例えば5大ドーム球場(札幌、東京、ナゴヤ、大阪、福岡)、
日本武道館、成田国際空港、あべのハルカスなど始め、全国の商業・公共施設、病院、オフィスビルなど多岐にわたります。
日本一有名な東京タワーの施工を担ったのも竹中工務店です。
日本の都会風景を造ってきたと言っても過言ではない竹中工務店。
その歴史は古く17世紀の戦国時代にまで遡り、御所、城壁、堤防、武家屋敷、土木工事を担う普請奉行として、
織田信長の元に仕えた初代・竹中藤兵衛正高が竹中工務店の祖とされています。
織田信長が本能寺の変で死に、やがて豊臣秀吉へと天下が目まぐるしく移る中、江戸時代となり、徳川家康によって名古屋城築城が諸大名に命じられます。
その際、織田家ゆかりの武家、商人、職人も移民政策に従い名古屋に移住しました。
これを「清州越し」と言いますが、その中に竹中藤右衛門一家も含まれていました。
彼らは名古屋城天守閣の工事にも携わり、後に神社仏閣の造営を生業に名古屋で創業、代々工匠として時代に足跡を残していきます。
創業は1610年なので、関ヶ原の戦いの10年後です。
時代は明治に入り、竹中家は三井家の両替所の物件斡旋をきっかけに三井財閥との縁を得ます。
以後竹中家は「三井銀行名古屋出張所」はじめ、三井系列の製糸所、倉庫の建設工事を受注していくようになりました。
この頃の当主は十二代・竹中藤五郎でした。
その次男、錬一こそが後に竹中工務店を創業し、初代社長となった竹中藤右衛門です。
■実戦で鍛えられた商いのセンス
錬一は明治10年に生まれました。母は息子の生後わずか半年で亡くなり、錬一は継母によって大切に育てられます。
通っていた私立大阪商業学校の校長は朝鮮貿易に熱心であったため、学校は朝鮮語の勉強に力を入れており、
なんと入学してすぐ猛特訓させられるそうです。
挫折する生徒もいる中、錬一はわずか3か月で朝鮮を習得するという才能を発揮します。
さらに商業学校らしく、実地での語学・商業研修のカリキュラムも行われていたようで、これまた入学してまもなく生徒たちは朝鮮に行商に行かされます。
薬品、眼鏡、文房具、爪楊枝、珊瑚樹、箸といった雑貨を仕入れておき、大阪川口港から乗船して朝鮮に向かう。
釜山、仁川、京城(現在のソウル特別市)での視察のち、京城を本部とし、各班に分かれて行商、つまり実際に商品を売り歩くのです。
行商が済む報告と清算のため基地(本部)に帰り、そこでまた、商品を一通り揃えて、別の場所へ行商に行く。
売上は生徒たちのアルバイト代として計上できました。
今の日本の学校ではあまり考えられない超実戦的なカリキュラムですね・・・。
度胸とセンス、そして語学力が必要だったのは言うまでもありません。
このような環境の中で錬一は叩き上げられていったのでしょう。
明治32年、錬一の父である十二代・竹中藤五郎は、神戸市小野浜の三井銀行倉庫工事の準備中に急死します。
49歳の若さでした。かすかな外傷から破傷風にまで悪化したのが理由です。
父の急死からまもなく、兄の曻太郎が十三代藤五郎となり、錬一が工事責任者となり後を引き継ぎます。
同年に神戸小野浜に「竹中藤五郎神戸支店」を開設、この年を「承業第1年」とします。
この事業承継は竹中家が個人営業から会社組織へ転換するきっかけとなりました。
■変わる環境、変える組織
竹中家は創業以来、着実に得意先と実績を伸ばし続け、創業10周年を迎える頃は経営基盤が強固なものとなっていました。
規模も業態も拡大し、新しい市場環境へ適応していくべく竹中家は個人営業から会社組織へ転換することを決めたのです。
まずは個人営業を合名会社とし、本店を神戸に登記。明治42年に竹中家一同、合名組織の出資額を決定し、門出の祝宴を上げました。
これを機に錬一は十四代・竹中藤右衛門の改名が許されたのです。
■「工務店」に込められた信念
実は社名が「竹中工務店」に決まるまでは紆余曲折がありました。
最初は「竹中建築事務所」に決めかけたのですが、これだと設計を事業としているように見られかねないので却下され、
次に「工務所」とする案もあったのですが、既に設計監督を事業とする「横河工務所」という系列会社があり、これも却下。
最終的には「設計と施工とを一貫して進むのが竹中家本然の姿であり、父祖以来のしきたり、信念である」とし、
「設計と施工は切り離せない」「顧客への奉仕を第一義とする」
との竹中藤右衛門の考えから「工務店」を掲げ、社名としました。
これが竹中工務店の始まりでした。
「工務店」という言葉を最初に生み出したのは、実は竹中藤右衛門なんですね。
■士魂商才の精神
昭和12年、竹中工務店は株式会社に組織変更され、竹中藤右衛門は同社長となり、のち相談役となります。
ほかに海外土木興業取締役会長、土木建築扶助会理事長、貴族院勅選議員、建築業協会理事長、日本土木建築請負業者連合会会長など要職を歴任しました。
彼は「士魂商才」を理念とした近代日本の実業家です。
意味するところは「武士の精神と商人の才の両方を兼ね備えること」。
「建築は商売であってはいけない。営利だけを追及する建築商であってはならない。
正しい道を正しく歩んで、信用を第一に重んじることで、得意先が次々と増えていく」
という言葉を残しています。
本当に仰る通りだと私は思います。
利益にがめついだけの会社に、お客様は果たして喜んでお金を支払うのでしょうか?
正しい商いを通じて人のため、社会のための問題解決を図り、信用を創ってこそ、お客様との間のお金の循環が長く気持ちよく続く本質なのではないでしょうか。
竹中工務店は手掛けた建物のことを「作品」と呼んでおり、会社のウェブサイトに掲載されている施工実績も「建築作品」と銘打っています。
単なる納品物以上に、連綿と数百年続いてきた自負と信義が一つ一つの建物に込められているように感じますね。
以上、大禅ビルからでした。