福岡天神物語

■今さらですが、天神の歴史を

大禅ビル(福岡市 大名 貸事務所)のある舞鶴エリアはここ数年で新築マンションが相次いで建ち始め、

 

人口が増え、地価も上がり、にわかに勢いづいてきています。

株価

といっても舞鶴エリアは、仕事をするための商業地区的な性格と、暮らしのための生活地区的な性格を両方兼ね備えているのが特徴です。

 

ビジネスマンの姿も、家族連れや子どもたち姿も同じ風景の中に収まる、それが舞鶴の個性であり、魅力ですね。

 

方や舞鶴に隣接する「天神」は、ご存知の通りバリバリの商業地区、福岡の中心をなす繁華街です。

 

福岡県民で天神に来たことのない方は、ほぼいないんじゃないでしょうか。

 

今回はそんな、福岡県民の溜まり場である天神の歴史についてお話します。

天神

■天神さまの漂着の地

そもそも「天神」という地名は「天神さま」、つまり「菅原道真」に由来しています。

菅原道真2

太宰府に左遷された道真が博多に辿り着いた時に川の水面を覗き込み、そこに映る憔悴して変わり果てた自分の姿を見て嘆いた場所とされる水鏡天満宮。

 

ここが天神始まりの地です。

 

水鏡天満宮は道真の死後、天神の今泉に建てられ、江戸時代になってから黒田家の手により今のアクロス福岡の横に移されました。

■明治維新後の天神

明治維新後、福岡藩は廃藩置県を経た後もそのまま福岡県となりました。

 

黒田家が根城にしていた福岡城は県庁舎として使われ、数年後に水鏡天満宮の向かいに移転します。

 

ちょうどいまのアクロス福岡の建つ場所に県庁舎があったわけですね。

アクロス福岡

また県庁移転の同じ年に第一大区調所、後の福岡区役所も設置されます。

 

江戸時代から明治末期にかけての福岡のメインストリートは、福岡城下を東西に抜ける福岡六町筋でした。

 

福岡六町筋とは、今の日銀の前の通りから、中名島町、上名島町、呉服町、本町、大工町、箕子町があって、6つあわせて六町筋と呼ばれていました。

天神古図

このエリアには旅館や商店、酒蔵、古書店などが軒を連ね、まさに商人の町として賑わっていたそうです。

 

ちなみに六町筋のうちの名島町は、黒田家が名島から移った時に名島の商人を連れてきたことに由来します。

 

それから上名島町と中名島町があるのに、下名島町がないのは不思議に思いませんか?

 

これは「シモ(下)」は商人にとっては縁起の良くない響きだったから、避けたそうな。

 

町の性格が垣間見えますね。

 

そして大工町の場所に、今の岩田屋の前身となる呉服商岩田屋がありました。

当時日本のデパートは殆ど呉服屋から始まっていました。

 

伊勢丹しかし、三越しかり、高島屋しかり。

 

デパートは都会的な消費と流行の最先端を担う存在で、その一角が天神に誕生したんですね。

 

明治時代には今の天神に連なる多くの建物が建ちました。

 

福岡銀行の前身の一つである第十七国立銀行、福岡中央郵便局の前身となる福岡郵便電信局など。

 

第十七国立銀行は1906年に不審火で全焼しましたが、その跡地に赤煉瓦づくりの日本生命九州支店が建ちます。

 

これが今も天神を代表するランドマークの一つとなっている福岡市赤煉瓦文化館として残っています。

エンジニアフレンドリーな都市を目指す福岡市の戦略を反映して、赤煉瓦文化館は2019年からITエンジニアたちのコワーキング&イベントスペース「Engineer Cafe」としてリニューアルされました。

 

なんとエンジニアに限らず、誰でも無料に利用可能という、太っ腹です。

エンジニアカフェ

■鉱山と天神との繋がり

1870年に藩知事の黒田長知は自身が関与した贋札事件によって福岡の地を離れます。

 

それを追うように天神町に居を構えていた旧藩士の多くがこの地を離れました。

 

時を同じくして大名町に鉱山監督署が設置されたのをきっかけに、筑豊の炭鉱主らが天神町や大名町に移ってきました。

 

現在のPARCOがある場所は、炭鉱経営者であり、玄洋社の初代社長でもあった平岡浩太郎の邸宅がありましたし、

 

平岡邸の向かいには「筑豊の炭鉱王」と呼ばれた伊藤伝右衛門の別邸がありました。

 

さらに西鉄グランドホテルが建っている場所には「筑豊御三家」の一つ、

 

かの安川財閥の創始者・安川敬一郎の二男の松本健次郎の別邸もありました。

 

石炭と言えば、富国強兵を目指す明治日本の根幹を支えた最重要エネルギー産業。

 

その足跡が天神にも及んでいたんですね。

石炭

■電力の鬼・松永安左エ門

天神の発展を語る上でなくてはならない人物がいます。

 

後に「電力の鬼」と呼ばれた実業家・松永安左エ門です。

松永安左エ門

松永安左エ門は壱岐の商家出身で、学生時代は福澤諭吉の門下生として学び、商社、不動産、酒造業を手広く営んだ後、電力事業に参入します。

 

戦前・戦後にかけて日本の電力産業に巨大な足跡を残した偉人として知られています。

 

例えば戦後日本の電力事業を一社独占ではなく、9つの電力会社に分割民営化させるというグランドデザインを行ったのは彼です。

 

それが今日の大手電力会社が10社体制(東京電力、関西電力、中部電力、東北電力、九州電力、

 

中国電力、四国電力、北海道電力、北陸電力、沖縄電力)に引き継がれています。

 

その松永安左エ門が電力事業に関わるきっかけとなったのが、福岡初の電気鉄道である「福博電気軌道」でした。

 

時代は明治末期。鉄道設置は大掛かりなインフラ事業でした。

 

ゆえに莫大な先行投資が必要だったのですが、当時の福岡市の財政や地元資本からの資金調達だけでは難しかったようです。

 

そこで博多湾鉄道や博多電灯を経営していた衆議院議員の太田清蔵を介して、

 

松永安左エ門と、彼の兄貴分であり、福澤諭吉の娘婿で、すでに実業家として名を成していた福澤桃介に事業設立が打診なされました。

福澤桃介

両者はこの難事業を引き受け、福博電気軌道は1909年9月に設立、桃介は社長、安左エ門は専務となり事業を走らせます。

 

突貫工事によってわずか5カ月で6.4kmにわたる軌道敷設が完成しました。

 

道路整備や橋の建設費を福岡県と福岡市が負担したこともあって、

 

既に運営を開始していた他の都市の電気鉄道に比べて建設費を安価に抑えることができました。

 

このため、福博電気軌道では運賃を1区間1銭という当時ほぼ最安値に近い価格に設定して利用数増大に軸を置き、

 

それに合わせて沿線で不動産開発や海水浴場など娯楽産業も手がけ、天神を含めた福岡全体のマーケット形成に関わりました。

 

この福博電気軌道は後に合併などを経て、今の西日本鉄道に繋がっていくわけです。

 

■「渡辺通り」の始まりをつくった男

今の天神の姿を作ったもう一人の功労者がいます。

 

博多の呉服商「紙与」の三代目、渡邉與八郎です。

渡辺与八郎

彼は私財を投げ打ち、当時の博多駅と博多築港を結び博多の周囲を回遊する循環道路や福岡市と近隣の村を巡回する道路を整備しました。

 

さらに福博電気軌道とはまた別の博多電気軌道(のち西鉄福岡市内線循環線)を開業します。

 

福岡市繁栄期成会を創り、自らは会長として地元の意見のまとめ役も引き受けます。

 

先述の福博電気軌道事業に対しても市会議員の実弟を送り込んで積極的に支援に当たらせました。

 

インフラ開発だけでなく、與八郎は福岡医科大学(現在の九州大学医学部)を福岡に誘致した人物でもあります。

 

当時福岡市よりも規模が大きく優位な条件が揃っていた熊本や長崎が候補として一日の長がありましたが、

 

彼の資金寄付を通じて地元での誘致運動が活発になり、他都市に競り勝つことができたのです。

 

まだ産業基盤の薄い当時の福岡市にとって、大学誘致はその後の産業形成の大きなエンジンになりました。

 

なにせ大学ができれば、学生や教師、その家族や関係者など、人口が増えますからね。

 

人口が増えるところにビジネスが生まれ、経済が活発化するわけです。今の舞鶴と同じように。

 

大丸ビルと三越が立ち並ぶ天神の中心を貫く「渡辺通り」は、そんな福岡の発展に尽力した名士の名にちなんでいます。

 

時代を超えて多くの人の物語が交差する天神という地。

 

そうした場の記憶を忘れないようにしたいものですね。

 

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