福岡が生んだ明治のエース外交官・栗野慎一郎
特に仕事の場面で要求されることが多いのが
「交渉力」
です。
交渉の目的をざっくり言いますと
「よりこちら側に有利な条件で相手との合意形成を図る」
です。
もちろん、ただ単に自分の利だけを主張すれば良しというわけではなく、
相手の利益も配慮して落とし所を探ったり、敢えて妥協したり、時には負けてみせたりといった戦術を取ることもあるでしょう。
さらに一対一ではなく、縦横にわたる網の目のような利害関係の中で交渉しなければならない時などは、より神経を張り巡らせた高度な交渉を要求されます。
互いに譲り合う精神が満ち溢れた世界ならいざ知らず、利益、価値観、感情の対立が往々にして生まれるのが私たちの生きる現実です。
そして人間が行う最大規模の交渉が国家間の
「外交」
です。
今回は明治時代に、エース外交官として不平等条約改正で獅子奮迅の働きをした福岡の偉人・栗野慎一郎についてご紹介しましょう。
■西洋主導のグローバル世界との接続の「痛み」
開国とそれ続く明治時代は日本の夜明けとでも言うように、プラスのイメージで語られることが多いですが、
それは結果的に日本がなんとか生き抜けたから言えるのであって、
当時の日本にとって開国は亡国しかねないリスクでした。
西洋列強の船が周辺海域に出没し、人的接触や小競合いが起こるようになり、
しまいにペリー率いる黒船の大砲で脅され、否応なく西洋列強が主導するグローバリズムに組み入れられていく試練の出来事です。
アジアの国は後進国、二等国として、列強から支配・搾取される側でした。
ですから日本の開国も、不平等条約とセットで始まったわけです。
当時の世界は大航海時代の延長にあり、今と違って国家間の対等や世界平和、人道主義といった汎人類的な考えがまだなく、
強い国が弱い国の上に立つ弱肉強食の理論で世界は動いていました。
軍事力、経済力、科学力など、「力(パワー)」が国家間の利益対立を解決する手段として、現代以上に重要な位置を占めていた時代です。
そして力の格差は、植民地と不平等条約の形となって表れました。
明治日本にとっては
「国家安全保障」と「不平等条約の改正」
は、最大かつ緊急な外交課題であり、そのための富国強兵政策だったわけです。
不平等条約とは治外法権、関税自主権喪失、一方的な最恵国待遇条款などを指します。
例えば関税だと輸入関税は平均2%で外国製は日本に入り放題、一方輸出となると高率な関税を課せられ日本製が売れない。
治外法権によって外国人の犯罪を日本で裁けなくなり、司法権を持てません。
江戸幕府の安政条約以来、列強各国と締結してきたこうした不平等条約の改正に歴代内閣は頭を絞ってきました。
■大禅ビルのご近所偉人
栗野慎一郎は1851年、いまの西公園の近くの福岡教育大附属福岡中学校のところにある旧荒戸谷町で生まれました。
荒戸と言えば、以前コラムでご紹介しました三菱財閥の総帥・團琢磨の出身地であり、つまり同郷なんですね。
大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)から車で5分の場所にこのような重量級の偉人を輩出しているとは驚くばかりです。
慎一郎の父は下級武士で、代々宝蔵院流の槍の師範をしていました。
ところが大黒柱である父が急死、慎一郎は若い時から非常に苦労したようです。
藩校修猷館で学んだ後、西新にあった当時三大私塾の一つであった瀧田紫城の塾「折中堂」へ入り漢学、国学、蘭学を学びます。
優秀だったので福岡藩第11代藩主黒田長溥の命により藩費留学生に選ばれ、英語修得のため長崎で英語を学びます。
同級生には陸奥宗光の姿もいました。
版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正など、国家のグランドデザインに深く関わり、その辣腕から「カミソリ大臣」と呼ばれた傑物です。
この時の縁あってか、慎一郎は後年に彼の元で不平等条約改正に奔走し、世に出るようになります。
■名門ハーバード大学に留学!
エリート街道を登ってゆくように思われた慎一郎でしたが、長崎留学時に福岡藩士による英国水兵殺害事件に巻き込まれ、
冤罪で京都の六角の牢に打ち込まれます。
この牢獄は同郷の志士・平野國臣が処刑された場所でもあったため、慎一郎はさすがに最期を覚悟したそうです。
最終的に釈放されはいいものの、キャリアに傷がついてしまったために、同郷の金子堅太郎、
團琢磨ら若手エリートとともにアメリカ留学に推薦されていたものの、当分謹慎ということでメンバーから外されてしまいます。
慎一郎が21歳の時でした。
今と違って、当時海外留学に行けたのはほんの一握りのエリート。
国運を背負う大変な名誉であると共に、本人にとってもまたとない出世の機会でした。
ですから不運なこと慎一郎は出だしでつまずいてしまったのです。
ただ、彼のいいところはここで腐らずに引き続き勉学に励んだのです。
そして25歳の時に黒田長溥からの推薦と学資を得て、晴れてアメリカ留学が決まります。
頭もよく、特に語学の才能がありました。英語やラテン語を短期間でマスターしていきます。
最高学府のハーバード大学に進学し、法制度や国際法を勉強しました。
同じ大学には先に渡米していた同郷の金子堅太郎もおり、またマサチューセッツ工科大学では團琢磨が鉱山学を学んでいました。
同郷のよしみもあって三人は以後、生涯の友人同士になります。
6年間の留学を終えた慎一郎は帰国後に小村寿太郎から司法省に誘われますが、それを断って外務省に入り、4年後に条約改正係を命じられます。
上司は初代外務大臣の井上馨でした。
その後、外務大臣は陸奥宗光が担い、いよいよ条約改正が実現します。
それまでの条約改正は各国まとめての同時改正を目指していましたが、ハードルが高くなかなか進まなかったそうです。
そこで宗光は、改正できるところから改正していく方針に切り替え、各国に置いた日本の出先公使に各国政府と直接交渉させるようにしました。
まず手をつけたのは列強の最強国・イギリス。
イギリスから条約改正の動きを起していけば、他国との交渉に有利に働くだろうと読んでいたようです。
ここでは駐独公使の青木周蔵に駐英公使を兼務させ、顧問のシーボルトをつけて交渉に臨んだ結果、キンバレー外相との間に第一号の条約改正が調印されます。
この余勢を駆って、次はアメリカです。ここで慎一郎に白羽の矢が立てられます。
宗光は慎一郎を抜擢して駐米公使に命じました。
気力が満ちる44歳の時です。
ハーバード大学出身で教養も深く、語学にも堪能で、さらに実直な人柄の評判がよかったのでしょう。
アメリカのグレシャム国務次官やクリーブランド大統領から気に入られます。
結果、駐米公使に就任したその年で慎一郎はグレシャム国務次官と日米条約改正の調印に成功します。
そこからさらに慎一郎はイタリア公使、スペイン公使も兼務し、スペインとの条約改正も成し遂げます。
続けてフランス公使、ロシア公使を拝命。
ロシアでは日露戦争開戦直前まで外交交渉に尽力しますが、叶わず。
ロシア政府に宣戦布告文を提出したのは慎一郎でした。
日露戦争後、初代駐フランス特命全権大使に任命されます。
日本とフランスのアジア権益を相互承認する日仏協約を締結し、同年、今までの功績が認められ男爵位を授けられます。
さらに日仏通商航海条約の調印も果たし、ここに全ての列強との関税自主権が回復し、不平等条約の改正が完了しました。
1858年日米修好通商条約の締結以来、約半世紀の道のりでした。
日本が列強にすり潰されたずに済んだのは、慎一郎ら外交官の活躍があったのです。
晩年は枢密院顧問を務め、1937年に87歳で亡くなります。
明治の男らしい大きく生きた人生でした。
綱渡りしなければならなかった困難な時代に、日本を背負って世界と交渉した偉人の足跡が実は舞鶴周辺にたくさん残っています。
そうした偉人の徳に少しでもあやかれたらと思い、私たちも日々精進する次第であります!