疫病の歴史・ペスト
前回に引き続き、人類と疫病の歴史についてご紹介していきたいと思います。
今回取り上げるのは
「ペスト」
世界で1億人を遥かに超える死者を出し、人類史上最大の脅威となった疫病中の疫病です。
■世界で最も恐れられた死の病
欧州人口の3分の1が死亡したペストは14世紀の大流行を含め、19世紀初頭まで世界的流行(パンデミック)が続きました。
リンパ節が腫れあがり、皮膚が黒ずみ、苦痛のうちに死ぬことから
「黒死病(Black Death)」
とも呼ばれ、恐れられました。
早期のペスト流行は6世紀半ば以来、半世紀近くビザンチンやヨーロッパ諸国で流行り、その後しばらく中東地方でのみ流行した後、沈黙します。
この嵐の前の静けさは8世紀末から約300年続いた後、1033年にインドで新たにペスト流行が発生、西に進み中東を経由し、11世紀末にヨーロッパに到達します。
その時期はちょうど東西を結ぶ交易が活発化し、十字軍が行き来する時代でした。
またペスト媒介の主役だと考えられているクマネズミがヨーロッパに移動した時期とも一致します。
12世紀以後、ヨーロッパ各地でペストの散発的な流行があって、ついに1348年に空前絶後の凄まじさで流行が直撃します。
■ペストの正体
ペストの病原体であるペスト菌(Pasteurella pestis)はノミを宿主としています。
このノミが寄生するネズミなどのげっ歯類がペスト菌本来の保菌者でした。
だからペストは最初からヒトの病気ではなかったんですね。
もともとはインドといった限られた地域に生息する野生ネズミの間で流行をくりかえしていましたが、
ヒトに寄生するノミとシラミが細菌を媒介し、ヒトに伝染するようになったのです。
ネズミがペスト菌に感染すると、そのネズミの血を吸ったノミに細菌が移り、感染したネズミが死ぬと、宿主を失ったノミは次に人間を襲うという流れです。
ただ最近の研究によると感染経路は別だったとも言われ、ネズミではなくヒトに寄生するノミが原因だったと考える学者もいます。
感染した人間から血を吸ったノミやシラミがペスト菌も一緒に吸い取り、別の人間に飛び移ってその人間が感染するという形です。
■ペストの症状
多くの場合の潜伏期間は 2~7日で、全身の倦怠感、寒気、39℃から40℃の高熱が出ます。
その後の感染の仕方と症状の出方によっていくつかに分類されます。
①腺ペスト
ペストの中で最も頻度の高い病型。リンパ節が腫れて痛み、リンパ節がこぶし大にまで腫れ上がります。
ペスト菌は肝臓や脾臓でも繁殖して毒素を生み、その毒素によって意識混濁、心臓衰弱に至り、治療しなければ数日で死亡します。
②皮膚ペスト・眼ペスト
ノミに刺された皮膚や眼にペスト菌が感染し、膿疱や潰瘍をつくります。
③敗血症(性)ペスト
急激なショック症状、昏睡、手足の壊死を起こし全身が黒いあざだらけになって死亡に至ります。
④肺ペスト
稀なタイプ。腺ペストを発症している人が二次的に肺に菌が回って発病し、又はその患者の咳やくしゃみによって飛散したペスト菌を吸い込んで発病します。
頭痛や40℃程度の発熱、下痢、気管支炎や肺炎により呼吸困難、血痰を伴う肺炎。治療しなければ数日で死亡します。
今では血清療法、抗生物質が開発され、治癒率は80-100%となり、21世紀の日本では死亡例はなくなりました。
■ペストが社会に与えた影響
ペストはヨーロッパで数千万の命を奪い、ヨーロッパ中から戦争がなくなるほどの激甚を極めました。
人口激減とそれに伴う労働力不足、経済・文化の慢性的な停滞以外に加え、人類社会に大きな爪痕をいくつも残しました。
まずは信仰の崩壊。
中世ヨーロッパではキリスト教が生活と価値観の根幹を成していたわけですが、神がこの疫病から人々を救えなかったという絶望感は破壊的でした。
なんなら高級聖職者たちの方がいち早く逃げ出そうとしたくらいで、彼らも人間なので巨大な恐怖を前に仕方ないこととは思いますが、宗教的権威はガタ落ちですよね。
それから道徳の荒廃。
ペストがもたらす極度の恐怖で人々は自暴自棄に陥り、自分以外はどうでもよくなり、社会規範が崩壊します。
ペストにかかったならば、それが例え肉親でも看護せずに見捨てて逃げ、死体の埋葬が追いつかず、腐るに任せてそこらへんに転がされていました。
「道端で、耕地で、屋内で、昼となく、夜となく、人間というよりはむしろ獣のように斃れる」
という記述も残っているほどです。
そして学問的権威の失墜。
当時の学問の絶対的権威はギリシア・ローマ時代から継承されてきた古典でした。
実に1000年以上にわたってヨーロッパの学問体系の中心を成してきたこれらは、残念ながらペストの脅威の前になんの役にも立ちませんでした。
これもまた当時の科学の限界です。
■ペストへの対策はほぼなし
対策はほぼないのも同然。
一度ペストにかかれば全く手の施しようがなく、あっても俗信、迷信に基づいた治療もどきの対処が精一杯でした。
ペストは「伝染するもの」だと漠然と経験的に知られていたようですが、そもそも病原体という存在すら知られていなかった時代です。
抗生物質はもちろん、正しい科学的知見に基づいた隔離や消毒といった公衆衛生対策も実施のしようがありませんでした。
ただ隔離に関する有効性に気がつき、実行した都市があります。
イタリアのヴェネチアでした。
実はヴェネツィアはペストのヨーロッパへの上陸地点とされており、900年から1500年までの600年間に、実に63回ものペストの侵入を記録しています。
この苦い経験が彼らに隔離・検疫の知恵を育てたと言われています。
ヴェネチアでは、ペスト感染の船舶・物資・人間をひとつの島に隔離する対策が役人によってとられていました。
また、1374年にペスト患者の届出・移動禁止、患者を町外れの一箇所に集めて隔離する命令が公布されています。違反者は財産没収あるいは死刑としました。
患者の隔離から、さらに患者の家屋の閉鎖・焼却などの対策が生まれます。
もちろん現代の公衆衛生対策と比較して、その効果にはおのずと限界がありましたが、
ペストが人類に遺した教訓を挙げるとすれば「検疫」の概念を生んだ点でしょう。
ちなみに検疫の英語quarantine はイタリア語 quarantenaria から出たものです。
そしてこの語のもとになったイタリア語の quaranta は「40」を意味します。病気の隔離期間が40日間だったからです。
なぜ40日になったかと言えば、急性病か慢性病を分別する時期が40日目、
あるいは聖書のノアの洪水が40日間だった、錬金術では物質の変成に必要な日数が40日間だったなど、色んな説が唱えられています。
■ペストの解明
ペストはその後、1665年にロンドンでさらに大流行し、およそ7万人の死者を出します。
1720年にフランスのマルセイユでも大流行しますが、防疫体制の整備と衛生状態の改善が進んだおかげで、
この流行を最後にヨーロッパでは徐々に収束していき、以降は局地的、散発的な流行になります。
一方、ヨーロッパ以外の国で流行が起こるようになり、トルコ、エジプト、ペルシア、香港で発生、日本にも飛び火します。
そしてこの時に世界で初めてペスト菌を発見したのが北里柴三郎とアレクサンドル・エルサンでした。
1894年6月14日、北里柴三郎は香港でペスト菌を発見し、イギリスの著名な医学誌「The Lancet」に投稿。
北里より遅れること数日、今度はエルサンが香港でペスト菌を見つけ、パスツール研究所に論文を送りました。
ペストはこの三度目の大流行で、ついにこの二人の研究者により正体を暴かれたのです。
ペストは1904年にインドで100万人以上の死者を出した以降勢いが減じ、第二次世界大戦以後の世界ではペストはほぼ克服されました。
こんなにも大変な疫病についてほぼ知らなかった自身の無知がお恥ずかしい・・・
1人でも多くの方々にこの歴史が届きますように。
以上大禅ビル(福岡市 赤坂 賃貸オフィス)からでした。