―「不動産」と「人」との幸せな関係とは?―
大禅不動産研究所
東急グループの創始者・五島慶太は今日においても実に毀誉褒貶に富んだ人物です。
それだけ発想と行動の半径も桁違い、世が世なら乱世の梟雄か、傍若無人な傾奇者と称されても過言ではありません。
「俺はその日のことはその日で忘れる主義だ。
その日に決断のつかないことを、思い悩んで明日まで持ち越すようだと、明日の戦争は負けだ。
一日の労苦を忘れるには、坊主とか芸者の浮世離れしたバカ話を聞き、ぐっすり寝て仕事を忘れるに限る。
翌朝は頭が爽快で、また新しい構想が浮かぶのだ。」
言葉から表れるその性は爽快に思えて、勝ちに貪欲な人物でありました。
■事業の先達との出会い
官僚暮らしに飽き飽きしていた五島は、鉄道経営の話を渡りに船とばかりに鉄道省に辞職願を置いて民に下ったわけですが、資金で躓く。
初めての転職で早速壁にぶち当たった五島は、この時二人の財界の大物との邂逅を果たします。
一人は「日本資本主義の父」と言われる実業家・渋沢栄一。
現在日本の上場企業のおよそ半数以上は彼によって育てられています。
みずほ銀行、東京証券取引所、王子製紙、帝国ホテル、キリンビール、サッポロビール、理化学研究所、一橋大学、同志社大学など
代表的なものを挙げるだけでもキリがなく、彼の関わりによって創設された企業・機関・学校は多数に上ります。
更に女子教育にも力を入れ、伊藤博文、勝海舟とともに日本女子大学を設立しています。
もう一人は前回書きました阪急グループの総帥・小林一三でした。
渋沢は欧州視察から帰国したばかりで、日本で「理想的な田園都市」の構想を実現すべく向けて動いていました。
すなわち形成されつつある中堅サラリーマン向けに首都圏郊外で田園住宅を開発するというものです。
事業を推進するディベロッパーとして「田園都市株式会社」が設立されます。
田園都市株式会社はまずは事業用地の買収から着手していきます。
現在の目黒区、品川区、田園調布の土地を片っ端から買収、その面積は最終的に48万坪にまで達しました。
同時に居住者に交通の便を提供するため、巨費を投じて電気鉄道の開通を進めていきます。
これが荏原(えばら)電気鉄道、後の東京急行電鉄(東急)の前身でした。
さて、鳴り物入りで始まった田園都市開発でしたが、折しも1920年の第一次世界大戦後の経済恐慌で株式暴落が襲い、渋沢は広大な用地を持て余します。
渋沢始め、財界・政界の錚々たるメンツが経営陣に揃いっていながら、ディベロッパー事業に精通し事業遂行のための実務を遂行できる人材がいなかったのが最大の課題でした。
お偉いさんたちが集まって話が盛り上がり、勢いでスタートアップするも皆何かと忙しく中途半端な世話しかできず、、、
専属で手を動かす者もいなく話は結局立ちえ・・・・・・
よくある話ですし、よく聞く話です。
そこで、この不況時にも関わらず私鉄経営で実績を挙げた関西の小林一三に白羽の矢が立てられます。
当初小林は固辞したようですが、説得され、話だけでも聞くだけならと月に一度上京、無報酬で役員会に出席するようになります。
小林は田園都市株式会社の経営に関わり始め、宅地開発と鉄道事業の采配を振るっていくものの、そう事は容易く好転しないのが世の中というもの。
小林はキレます。
「僕が毎月上京して役員会で方針を定めて行くが、さっぱり実行出来ない。
呆れてものも言えぬ。実行力のある人を役員に入れて貰わねば、折角毎月来ても何にもならぬ」
頼まれたから忙しい中時間を割いて会議に参集し、頭を絞ってあれこれ提案しているのに全然やれてないじゃないか。
動ける人を入れなさい!
至極最もな意見でしょう。
自身の代わりに小林が推挙したのが、五島慶太でした。
■難境を切り抜く
五島は小林を呼び、説得します。
「五島君、武蔵電気鉄道をやろうとしていると聞いている。
構想は良いがカネがかかりそうだね。資金を集めるのも大変だろう。
それよりもまず渋沢さんの荏原鉄道を手伝って土地を売ってはどうだろうか。
鉄道ができれば沿線の土地が値上がりする。
そこで売却したカネを武蔵鉄道の建設資金に当てればいい」
先達から伝えられる経営ノウハウに「なるほど」と五島は思います。
教えに従い1922年から目黒浦田鉄道(荏原電気鉄道から改組)の常務に着任、関東大震災で家を失った人々の移住という追い風も手伝って、鉄道会社と田園都市株式会社は順調に業績を上げていきます。
その利益で常務を兼任していた(旧)東京横浜電鉄(武蔵電気鉄道から改組)の株式の過半数を買収、名実ともにオーナーとなります。
とは言え、武蔵電気鉄道の経営はなかなか思うようにいきません。
そこで五島慶太は回生の一手を考えた。
早晩武蔵電気鉄道は倒産する。切り抜ける活路は売却しかない。
武蔵電気鉄道を売却し、好業績の目黒浦田鉄道と田園都市株式会社に乗り込み支配権を握れば、延命できるうえ事業エリアも拡大する。
そして目論見通りに五島は1928年に目黒蒲田電鉄に田園都市株式会社を、更に1939年に(旧)東京横浜電鉄を合併させ、(新)東京横浜電鉄を設立します。
そして(新)東京横浜電鉄は、戦時下での交通事業の整理・統合により、後に小田急電鉄、京浜電気鉄道始め、鉄道、バス、陸運、タクシー会社約30社を次々に傘下に収めながら、1942年に東京急行電鉄、今の東急グループの母体が設立されるのでした。
「大東急」と呼ばれる一大帝国の総帥を務めたのは、もちろん五島でした。
時は太平洋戦争の真っ只中、ミッドウェー海戦の年です。
■不動産と人
戦後の分割・再編、事業多角化の繰り返しを経て、現在の東急グループは多彩な業種によって形づくられています。
祖業の鉄道と不動産から身を起こし、
地下鉄、バス、航空などの運輸や百貨店・スーパーなどの流通、広告代理店やスポーツジム、建設、電力小売、カード、警備、CATV、映画館(東映)、ホテル、介護など
人々の生活の隅々に密着した「揺り籠から墓場まで」のインフラを提供してきました。
日本のみならず中国、オーストラリア、タイ、ベトナムへ都市開発を展開しています。
鉄道の輸送人員は2017年に過去最高の年間11.6億人を突破、他の私鉄を圧倒しています。
「終始一貫して知恵を借りて自分の決心を固めたものは、小林一三だ。
百貨店も全く小林の知恵により、阪急百貨店と同じようなものを作った。」
五島は経営の師である小林の教えに忠実に従い、時代の次の一歩を見据えて事業を前進させてきた。
次の一歩とは、すなわち「庶民のライフスタイルの変化」。
都会暮らしを始めた庶民の生活感覚と商品水準に根ざした事業。
だから彼は、三越や高島屋のような高級店ではなく、生活必需品を売り、手頃な値段で美味しい定食が食べられる食堂のある東横百貨店を、当時はまだ都会とは程遠い郊外だった渋谷駅の隣にオープンしたのです。
当時の渋谷に暮らす人は、突如として現れた程よい敷居の百貨店、駅、住宅に親しみを覚え、新しい時代の牽引者として渋谷という街で暮らしを創り、自分たちの街にしていったのでしょう。
次の時代に想像を馳せ、五島によって置かれた不動産が呼び水となり、人が集まり、暮らしが育ち、一つの街のDNAを創ったのです。
今や日本を代表する若者流行の発信地となった渋谷の渋谷らしさに、そのDNAは間違いなく底流しているように感じます。
時代の先に寄り添い、街の文化を創る。
そんな不動産こそ人と幸せな関係を取り結べるのではないでしょうか。