―「不動産」と「人」との幸せな関係とは?―
東急グループ創設者・五島慶太①
2回に亘り小林一三氏を紹介して参りました。
鉄道沿線に一戸建て住宅、鉄道終点にデパートと劇場という「私鉄経営モデル」の礎を築いた氏は、現代の日本人のライフスタイルを創ったと言っても過言ではなく、
彼はただの不動産開発以上に、人々の新しい暮らしの創造者でもありました。
大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)も「レンタルオフィス」という不動産を通じて世の中への価値提供を生業とする者として、本質的に提供すべき価値は何か?
に対し常に思考を巡らしていきたく存じます。
さて今回はもう一人、小林一三と同時代の経営者をご紹介します。
名前は「五島慶太」、かの東急グループの創設者です。
小林一三を経営の師と仰ぎ、その手法で「東の五島、西の小林」とまで評された東急帝国を一代で築き上げた豪傑。
その強引な経営や買収ゆえ毀誉褒貶の激しい人物ですが、面白い人物なのは間違いありません。
1979年にオープン以来「若者ファッションの聖地」として流行を発信し、一時売上が280億円にも達していたファッションビル
「SHIBUYA109」
は、実は東急グループによって開発・運営されているのはあまり知られていません。
名前の由来も東急から来ています。東急→10と9→109という具合です。
109ができたのは五島が亡くなって20年経った後ですが、文化創造のためのDNAを偲ばせるものがあります。
事実五島の鉄道沿線開発に関して、小林と異なるのはエンターテイメントに加えて「学校」の積極的な誘致を図っていたのが特徴でした。
彼が誘致に関わった学校は多数あります。
東京工業大学、慶應義塾大学の日吉キャンパス、日本医科大学、東京府立高等学校(後の東京都立大学)、東京府青山師範学校(後の東京学芸大学)
など。
土地、資金を有償無償で提供し、誘致できたことにより沿線は学園都市として付加価値が高まっていきます。
同時に、安定した通学客を獲得する結果となりました。
もちろん、事業戦略という側面もあったでしょうが、もともと五島は教育に深い関心を持っていた人物でした。
彼の立身出世は常に教育とともにあったのです。
■志を捨てきれない
五島は明治15年、長野県小県郡青木村の、小林菊右衛門の次男として生まれました。
父親の事業の失敗もあり、決して裕福な家ではありませんでした。
しかし、五島は志が高くなんとかして勉強したいと思い父親を説得、小学校後中学に通わせて貰えるようになりました。
毎日、三里の道のりを歩き、一日も休まず通学したと言います。時代は日清戦争の時でした。
向学心に燃えた少年でした。
なんとか中学は出たが、上級学校へ入りたいという希望は止む事がなく、小学校の代用教員をしながら、学費を貯めました。
当時、東京で学生として暮すには、月二十円も出せばよかったが、その二十円が慶太には作れなかったのです。
1902年にやっとの思いで上京し東京高等商業学校(後の一橋大学)の受験に挑むものの、英語で失敗し結果は不合格。
その翌年に、学費のいらない東京高等師範学校(後の筑波大学)へなんとか合格し、代用教員を辞め英文科へ進学を果たしました。
師範学校の校長は、柔道の創始者たる嘉納治五郎。
後に五島の人生が拓くきっかけとなる出会いをここで果たします。
卒業後、三重の四日市の市立商業学校に、英語の教員として赴任した五島でしたが、燻りが止みません。
「一度学校に赴任してみると、校長はじめ同僚がいかにも低調でバカに見えて、とうていともに仕事をしていくに足りない者ばかりだった。
そこで、これではいかん、一つ最高学府の大学を出て、世の中と勝負してみてやろう」
と、後年の五島は語ります。
中々に尖ったビッグマウスに思えますが、彼には志を貫くだけの強い意志と実力を持ち合わせていました。
次の年の四月、五島は商業学校を辞め、東京帝国大学政治学科に入学します。
しかし、官僚としての立身出世の思いの強かった五島は、更に当時日本最難関とされた旧制第一高等学校(後の東京大学教養学部)の卒業資格試験に挑戦し、見事これに合格し法学部本科に転学します。
しかし入学はしたものの、たちまち学費の支払いに窮します。
学業は続けたい、どうしても勉強したい、世の中に出たい。
万策尽きた時、仕方なく旧師の嘉納治五郎の門を叩き、頭を下げました。
先生ならきっとなんとかしてくれるんじゃないか、そう思ったのでしょう。
■ご縁で拓いた人生
貧乏金無しの元教え子に、嘉納は富井政章男爵の子息の家庭教師の仕事を斡旋してくれました。
この富井という人物は日本の民法研究における重鎮中の重鎮です。
法学博士であり、天皇の諮問を担う樞密顧問官まで務めあげるという位人臣を極めたエリート。
そして、万人の敬意を集める高潔な人格者であったと五島後年親愛の念とともに回想します。
「人間はかくあるべきだと身をもって教えてくれた唯一の師」
として、五島が生涯の中でも最も深く感化を受けた人物でした。
富井が病床につくまで四十日間あまり、一日も欠かさず病床を見舞い、遺族を金銭面でお世話したほどでした。
そして、子息は五島の教えが功を奏してめでたく高等学校に合格します。
しかし、このまま富井の家に居候するわけにもいかず、五島は政治家の加藤高明を紹介してもらいます。
今度は加藤の息子の住み込みの家庭教師となり、なんとか糊口を得たのでした。
この加藤もまた政財界の重鎮。
三菱の一社員から本社副支配人まで成り上がり、更に外務大臣を4回、総理大臣を1回務めました。
三菱創始者の岩崎弥太郎から信頼を得、彼の長女と家を成します。
その加藤邸を居所とし、29歳という遅い年齢で東大法科を卒業。
それから今で言う公務員試験の「文官試験」に合格し、加藤の斡旋で農商務省、今で言う経産省に入省し、一年後に鉄道院へ転属します。
五島の鉄道との出会いでした。
■官僚から事業家へ
五島は鉄道院を辞めて民間鉄道の経営に携わるまで、都合約10年間官僚勤めだったわけですが、これについて彼は以下のように述懐しています。
「そもそも官吏というものは、人生の最も盛んな期間を役所の中で一生懸命に働いて、ようやく完成の域に達する頃には、もはや従来の仕事から離れてしまわなければならない。
若い頃から自分の心にかなった事業を興してこれを育て上げ、年老いてその成果を楽しむことのできる実業界に比較すれば、いかにもつまらないものだ。
これが十年近い官吏生活を経験した私の結論であった」
自分に属す事業を一から最後までやり通したい。
ひたすら努力の末、長野の寒村から高級官僚にまで立身出世した五島は、やはり事業家の星に生まれたようです。
面白いエピソードがあります。
鉄道院で五島は1919年には総務課長に昇進しましたが、高等官七等という身分であったために「課長心得」という肩書になります。
「心得」は「代行」「補佐」の役職に当たるのですが、五島はこの処遇が気に食わなかったようです。
稟議書の認可を押す時に、わざと「心得」の2字を消してから、上へと回したそうで、何度もやっているうちにさすがに次官もそれに気付き、かくして五島は「課長」になることができました。
しかし、晴れて心得が取れて課長に就任しても、1年半ほど経った頃、いよいよ官僚生活への嫌気が加速します。
その頃、武蔵電気鉄道(後の東急東横線)が開発のために資金集めに難航し、鉄道建設に専門の知識を持った経営者を求めて鉄道院次官に掛け合ったところ、次官は五島を紹介します。
曰く「課長心得が気に入らないと言って『心得」を消してくる面白いやつがいる」と。
人生とはわからないものです。この縁を渡りに舟と感じた五島は1920年に鉄道院を辞し、武蔵電気鉄道常務に就任しました。
経営者としての第一歩を踏み出します。ただ、いかんせん資金がない。五島は頭を抱えました。
彼の相談相手となったのは、小林一三でした。