建築史シリーズ 日本の近代建築㉗

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的に教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナー、建築家というのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

このシリーズではそうした美に携わってきた建築家たちを中心にご紹介していきます。

 

○丹下イズムの継承者・大谷幸夫

大谷幸夫は1924年に東京都で生まれた建築家、都市計画家です。

 

丹下健三の片腕として、丹下健三が戦後飛躍していくきっかけとなる主要な建物計画のほとんどに関係しています。

 

一方で、高度経済成長期の歴史的建造物の破壊への反感や、歴史的町並みや風景の保存についても発言するなど、社会派の建築家の側面ももっていました。

 

作風は、大地に建つ建築をしっかりと支えるかのような力の流れを造形的に処理したコンクリートの使い方が特徴です。

 

大谷は自分が一から十まで建築をデザインし尽くすという傲慢な姿勢を戒め、常に新たな世代の建築家が活動できる余地を残すべきだという主張をもっていました。

 

「今決めてはならないことや決められないことまで決めてしまうと未来の豊かな可能性を歪ませ抑圧することになるので厳に慎むべきことだ」と未来への余地を含んだ考えを述べています。

 

金沢工業大学キャンパス北校地

 

 

大谷は設計の際、建築を都市との文脈で捉え両者の復興や発展を連係させて考え、まず都市のあるべき全体像があって、その枠組みや方向に基づいて各部が規定されるという方法論を用いています。

 

ここでも、公式のマスタープランを確定せずに、各時点の計画を連係し、補正しすることで、校地の体系を導くという、部分から全体を導く方法論を貫いています。

 

千葉市立美術館

 

 

地上12階地下3階建てで、中央区役所を内包しています。

 

この美術館は、歴史的建造物の新たな保存方法を提案した例として知られています。

 

美術館新築予定地には、矢部又吉設計の旧川崎銀行千葉支店が存在していました。

 

これを残すために、大谷は既存の建物を新築する建物の中に丸ごと納めてしまうという鞘堂方式を提案し、実現させます。

 

鞘堂方式は、旧建物を全面保存しつつ、新たな建物で覆うように建てるという方式で、中尊寺金色堂の覆堂で知られるように、この方法は古来から荒天から小規模な建物を護るために行われていた方法です。

 

◯「人口土地」の創造者・大高正人

大高正人は前川國男建築設計事務所の大番頭ともいえる建築家で、日本の建築運動として世界に影響を与えたメタボリズムを数名で立ち上げたのが大高です。

 

人工土地の計画の実現作として著名な坂出人工土地に加えて、原爆スラムとして最後まで残っていた地域に広島基町長寿園高層アパートの建設を行いました。

 

多くの公共的な施設の設計に携わり、また農業協同組合の施設設計を数多く手掛けたことでも知られています。

 

大高は群造形(グループ・フォルム)という概念を提唱していました。

 

群造形の概念は、個々の建築が自由につくられつつも、全体として全く新しい秩序の建築群を構成する方法として提唱されました。

 

多くの人々が暮す街では世代交替を繰り返し、歴史が集積していく。

 

大高は、このような街の多重性と集積性を生かしながら、よりよい環境をつくるためには

 

「街全体を統括する制御組織を開発し、そのコントロールのもとで人々の自由な創造が活発に行われねばならない」

 

と考え、個と全体が相関し合う建築のシステムを模索していています。

 

新居浜農業協同組合本館

 

鉄筋コンクリート造3階建ての、力強い構造が目を引く施設です。

 

1階と2階を8本の柱で支えて太い桁を載せたフレームで構成し、柱の中央部を突出させることで柱の太さを感じさせないよう処理しています。

 

3階を16本の柱で分割して支え、窓ガラス上部の建具の厚みを極力抑えることで、ガラスそのものが屋根を受けているような軽快さを出しています。

 

坂出人工土地

 

 

坂出人工土地とは、香川県坂出市京町に存在する約1.2ヘクタールほどあるコンクリート地盤土地の名称です。

 

分厚いコンクリートの地盤を築き、その下には市民ホールと商店街、駐車場を整備、地盤上には集合住宅や公園を整備しており、市街地開発の新たなモデルとして建設当時話題を呼んだ斬新な二階建ての都市でした。

 

このプロジェクトでは、地上レベルを駐車場とし、その上に人工のコンクリート・デッキの人工地盤を建設し、建替え住宅はそっくり空に持ち上げています。

 

建替えによってすべて過去の建物をクリアランスして、そしてデッキ上に、歩道・広場・児童公園などのある住宅地を建設。また植栽が施され、植物が生い茂っています。

 

人工土地は、群造形を具現化したものとして新宿副都心計画が発表されたことに始まります。

 

「土地がその都市的利用に困難なさまざまの条件を持っているとき、そこに造成しなければならない各種の都市施設やオープンスペースなどのベースとなる構築物」のことを人工土地としています。

 

当時のこの地域に建つのは低層住宅ばかりだったが、人工土地の地盤面は2階建ての棟木ほどの高さだったため、眺望にも優れています。

 

人工土地計画は大高のいう「母なる大地の化身をつくり出したい」というような単純な土地問題の解決方法というだけではなく、

 

地方都市の木造住宅密集地を改良し、周囲にある商店街の環境整備のために人工士地の地下に舗道や広場を備えた商店街と駐車場を配置する再開発計画でもありました。

 

○九州における丹下イズムの継承者・光吉健次

光吉健次は、九州各地の都市計画や建築行政に数多く関わり、とりわけ福岡市においては都市景観、文化、博覧会基本構想など幅広く活躍した建築家です。

 

東京大学において丹下健三のもとで倉吉市庁舎などの実施設計に従事。

 

九州大学工学部建築学科の創設期に講義を兼務していた丹下の後任として、助教授となります。

 

大学退官後は福岡都市科学研究所(現公益財団法人福岡アジア都市研究所)を設立して、地方の自立と発展を目指した調査研究や、人材育成などに奔走しました。

 

光吉は、福岡に移住した当初は地方性に否定的な立場を示していました。

 

ただ、東京からの急激な近代化の波で福岡においてハードな面で地方的なものが失われ、農村部においてすでに近代化が押し寄せ、古い農家が急激に消滅しつつあったことから地方性、或いは建築のローカリズムということを強く意識するようになったといいます。

 

「日本の顔としての住宅は、歴史保存の町並みに部分的に残る可能性が強い」と述べているように、都市を考えると同時に歴史的建造物のもつ地方性や役割に注目していたことがわかります。

 

九州大学50周年記念講堂

 

 

九州大学では、昭和35年竣工の建築学教室と昭和42年竣工の50周年記念講堂を手掛けています。

 

50周年記念講堂は、キャンパス内での入学式、卒業式のために計画された施設です。

 

講堂という閉鎖的な空間と、食堂という開放的な空間、会議室というプライバシーを確保しながら視覚的な開放感を要する空間、といった各々の機能の異なった閉鎖空間と開放空間をいかに構成するかがポイントでした。

 

八女市中央公民館

 

八女市中央公民館は、昭和43年竣工の鉄筋コンクリート造3階建ての施設です。

 

光吉は昭和42年に八女市中心部再開発計画を策定しており、その整備における拠点施設の一つとして建てられました。

 

50周年記念講堂では玄関を中央からずらし、非対称な外観としていましたが、ここでは中央に玄関を配して対称に塔を設けています。

 

光吉は、公民館は社会教育の拠点となる施設だが、そこに要求される部屋は相互に関連性がないものが多く、玄関ホールをコミュニケーションスペースとして中心に据え、各部屋は玄関ホールを取り巻くように配置したそうです。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 

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