建築史シリーズ 日本の近代建築㉖

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
 

とは言え、私は専門的に教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナー、建築家というのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

このシリーズではそうした美に携わってきた建築家たちを中心にご紹介していきます。

 

◯研究する建築家・増田友也

増田友也は建築家であり、建築研究者でもあります。

 

1914年に兵庫県三原郡八木村に生まれ、大学は京都帝国大学工学部建築学科に通い、卒業後は満州炭鉱工業会社に就職。

 

戦時体制が刻々と激化していく中で、いつ召集を受けるかもわからないという情勢でしたが、増田は「関東軍コンクリート造船」の技術者として招かれ、結果的に戦地に送られることはありませんでした。

 

1950年8月15日に京都大学工学部建築学科講師に着任後、独自のスタイルによる建築を多数発表します。

 

増田は精力的な研究とな創作活動を通して、理論と実践を行っていた建築家です。

 

そのため、優秀な建築論の研究者を輩出すると同時に、弟子たちのなかには著名な建築家も現れています。

 

智積院会館

 

智積院会館は、全体構想から細部まで増田が主導したもののうち、特に関与度が高いものの代表作の一つです。

 

真言宗智山派総本山智積院のいわゆる宿坊で、一般の人々も利用できます。

 

モダンな量塊感のある大きな庇を4角錐台の柱で支えたエントランスが特徴的です。

 

京都大学総合体育館

 

京都大学総合体育館は、鉄骨鉄筋コンクリート造3階、地下1階建ての増田の代表作です。

 

京都大学創立70周年記念事業後援会から京都大学に寄贈されたものです。

 

外観の柱内に納まる格子状の部分は、ル・コルビュジエのチャンディガールの計画やユニテダビタシオンなどに見られるブリーズソレイユ、あるいは沖縄や台湾の建物に用いられる防暑用の花ブロックのように窓や壁の前面に用いられる日除けとして機能します。

 
コルビュジエ11
 

増田は「空間とは身体の延長として、両手を拡げたときの脇あたりの拡がりである」という教えを繰り返し説きました。

 

ゆったりと大きく両腕を拡げて、訪れるものを包み込むファサードの構成は、増田が生涯をかけて探求した「空間なるもの」の具体化と言えるでしょう。

 

○建築教育者・吉阪隆正

吉坂隆正は、巨匠、ル・コルビュジエの3人の日本人の弟子(前川國男、坂倉準三、吉阪隆正)のひとりとして、モダニズムの思想を日本に紹介し実践した建築家です。

 

それゆえ吉阪は戦後日本の建築史の中でも際立っています。

 

住居論から都市の全体計画まで、アジアからヨーロッパ、南米、アフリカまで、壮大なスケールの行動力と強烈なキャラクターで吉坂は学生や弟子を導いていきました。

 

吉坂は大正6年に東京小石川で生まれ、3歳の時に父の仕事の関係でスイスのローザンヌヘ渡ります。

 

幼い頃からスイスを中心に海外で育った吉坂は、この時代では比較的珍しい経歴を持つ建築家と言ってよいかもしれません。

 

昭和7年に家族と渡英しエジンバラ大学教授宅で約1年間単身で寄宿し、その後スイス・ジュネーブ・エコールアンテルナショナルを卒業。

 

帰国して早稲田大学高等学院、そして早稲田大学を通い、卒業と同時に同学の建築科教務補助を務めます。

 

北千島学術調査隊、北支満蒙調査隊といった重要な実地調査にも参加、その後召集に応じて従軍します。

 

終戦後、古巣の早稲田大学工学部の助教授に復任し、フランス政府給費留学生としてフランスヘ渡航します。

 

そこでル・コルビュジエのアトリエに弟子入り、彼のアトリエで勤務します。

 

帰国後は早稲田大学に復職、さらに昭和15年早大アラスカ・マッキンレー隊隊長として、アラスカから北米西海岸を縦断。

 

昭和39年に、吉坂は学内で設計活動を開始。そこで設計組織として彼の名刺とも言える「U研究室」を創設します。いわゆるアトリ工系設計事務所ですね。

 

日本建築学会会長など多数の要職を歴任しつつ、昭和55年に亡くなりました。

 

吉阪は農村や都市計画などの研究や大学セミナーハウスなどの設計に留まらず、大学では早大アラスカ・マッキンレー隊隊長として北米西海岸を縦断するなど冒険家的な活動も行っています。

 

設計事務所としての吉阪研究室及びU研究室を主宰し、多くの建築家の弟子を輩出した教育者としても知られています。

 

江津市庁舎

 

 

構造は鉄筋コンクリート造5階、塔屋4階建てで、ピロティによるA棟と大地に建つ高層棟のB棟、背面にある消防車庫などのC棟から構成されます。

 

A棟は、A形の巨大な支柱によるピロティが特徴で、この構造は橋梁技術を応用したプレストレストコンクリートによる柱です。

 

A形の柱によって生じたピロティには、コミュニティの中心となる市民広場が設けられています。

 

大学セミナーハウス

 

 

11年間、7期に渡って工事が行われた施設です。

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ピラミッドを逆さまにし、先端部が地面に突き刺さったように見える本館が有名ですね。

 

視覚的に感じる力学的な作用を反転させることで、構造体の重々しさを軽減させています。

 

また、斜めの壁は窓の庇として機能しています。

 

吉阪は、「新しい大学のあり方を、ここの丘に打ちたてるべく模を打ち込んだのだ」としていますが、造形をもって構造などの既成概念を打ち破り、

 

同時に高校から大学へ、大学から社会へというなかで学生が感じる漢然とした不安感に対して、地に足さえついていれば大地に立つことができるということを暗示しているようでもあります。

 

○プロポーションの達人・芦原義信

芦原義信は東京府(現・東京都)で生まれ、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。技術士官として海軍に入ります。

 

1945年、坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所。1953年、ハーバード大学大学院で修士号を取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所します。

 

芦原はマルセル・ブロイヤーのもとで学び、独立後、昭和30年東京オリンピックの第2会場となった駒沢公園で、都市計画公園として建設事業に着手しました。

 

東京都によってレスリング会場の体育館、記念管制塔、外構の設計者としても選定を受け、設計を担当しています。

 

建築・都市の理論家としても知られ、建築の構成は、その建築だけの問題ではなく、街路や都市との関係で決まってくるという考え方を示し、後進に広く影響を与えています。

 

芦原は、建築の計画には全体発想と部分発想の2つがあると考えました。

 

たとえば、パルテノン神殿、ピラミッド、コルビュジエは全体発想であり、アアルト、桂離宮、数奇屋建築は部分発想であるとしています。

 

全体発想は、最初に造形的なプロポーション、均整、左右対称を決めて内容を詰め込んで建築を創造していく方法で、引き算の建築です。

 

部分発想は、必要な部分を集積してつくっていくという発想で、こちらは足し算の建築となります。

 

駒沢公園管制塔

 

 

駒沢公園管制塔は、頂部に相輪塔を冠し、中央に明確な塔が核として存在する、という伝統的な五重塔を意識した姿をしています。

 

周囲は組物を省略した柱と梁の構造とし、そこに平坦な軒を積層させて組み合わせています。

 

軒を深くして構造を象徴的に見せながら、近景でも楽しめるという部分発想の工夫がなされています。

 

左右対称の造形物であり、全体発想として遠景で象徴的に見せ、それだけで成立する五重塔のような独立した象徴性を示しています。

 

駒沢体育館

 

 

駒沢体育館は、東京オリンピックの施設として計画され、昭和39年に竣工した鉄骨鉄筋コンクリート造、HPシェル構造の屋根をもつ建築です。

 

芦原は、HPシェル構造で屋根のみの独立した大空間を構成しました。

 

3000宮の客席は構造を屋根と分離させ、大半を地下に埋め込んでいます。

 

外部の広場の地面レベルから室内にアクセスするようにできています。

 

その際、客席が下がっていることで、目の前に体育館の大空間が広がるような構成になっています。

 

また、外観の高さが低く抑えられるので、環境への配慮も同時に解決しています。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 

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