建築史シリーズ 日本の近代建築⑥

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的に教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナー、建築家というのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

このシリーズではそうした美に携わった先人たちが紡ぎ上げてきた建築の歴史を中心にご紹介していきます。

 

◯長さの単位から定義したル・コルビュジエ

ル・コルビュジェエは、20世紀のモダニズムを代表する建築家です。

 

合理的かつ機能的で明快なデザイン原理を追求し、世界中に大きな影響を与えました。

 

弟子には前川國男や坂倉準三など日本人建築家も多く輩出しています。

 

「近代建築の五原則」が有名ですが、それ以外にもモデュロールといわれるコルビュジエ独自の寸法体系があります。

 

コルビュジエは、世界の標準となりつつあったメートル法が人体に由来していないことを危惧し、古典建築にも見られるような、人体や自然から導き出された寸法体系を提案したのです。

 

コルビュジエが理想とした成人男性の身長183cmを基準とした場合、その黄金比である113cmがヘソの高さにあたり、

 

その倍数の226cmは手を挙げた高さになることに着目、フィボナッチ数列の規則性で展開する、6と11からはじまる二つの数列を作成しました。

 

モデュロールは建築や機械、その他に応用できる設計に取り入れられていきます。

 

その空間は、上野にある国立西洋美術館でも体験することができます。

 
国立西洋美術館
 

国立西洋美術館は、1955年日本政府により依頼を受けたコルビュジエにより設計されました。

 

柱は635cm間隔で均等に立てられ、2階展示室の低い天井や中3階の天井の高さは226cm、バルコニーの手摺の高さは113cmなど、建物のほとんどがモデュロールの寸法にならっています。

 

また、外部のルーバーや外壁パネルの割付にも、モデュロールが用いられています。

 

「天井高226cm」と聞くと、私たちでも「低いのでは」と直感的に思うかもしれません。

 

しかし、実際に展示室に行ってみるとそのような圧迫感はなく、むしろ展示品に集中できるだけの落ち着きを与えています。

 

また、この展示室は明るく開放的な吹抜け部分と隣接していることで、それぞれの空間の違いを際立たせ、その違いを楽しむこともできるように配慮されています。

 

◯斬新な日本発のスタジアム

1964年の東京オリンピックで、世界は日本が戦後の敗戦から驚異的な復興を成し遂げたことを世界に示しました。

 

また、日本建築も一つの作品とともに世界のトップレベルにあることを示しました。

 

それが、丹下健三が設計した国立代々木競技場です。

 

 

この競技場に足を踏み入れると衝撃を受けるのは、何万人もの観客を内包する柱のない巨大な空間です。

 

丹下は選手と観客を一体にするには、柱は不要と考えたのです。

 

この空間を実現したのが半剛性吊り構造システムです。

 

さらに、のし瓦やや屋根の曲線、格子のデザインなど、日本の伝統があらゆる点で融合していることも評価を高めました。

 

1930年頃に日本へ入ってきたモダニズムは進化を続け、この代々木競技場で日本の伝統を獲得しつつ、ひとつの頂点に達しました。

 

造形的ダイナミズムに溢れるモダニズムの圧倒的な荘厳さ。

 

丹下はモダニズムでの構造表現を世界でもっとも早く実現したのです。

 

設計も施工も前例がないだけに困難を極めました。

 

しかし、アスリートと観客のことを考えに考え、これしかないという結論に達したのです。

 

◯ユニットバスの原型の誕生

1964年の東京オリンピック開催に間に合わせるために、1044戸のホテルを17か月で建設する必要がありました。

 

そのようにして計画がスタートしたのがホテルニューオータニです。

 

 

通常、3年はかかる規模の超短期の工期で、しかも、工事の着工時に描かれていた図面は「平面図一枚」だったといいます。

 

工期期の超短縮を実現させるため、当時最新の考え方や工法が駆使されました。

 

当時の東京では、建物の高さは31mと制限されていました。
従来の工法では法律的に不可も耐震性の実現も不可能だったのです。

 

しかし、地震力を柔軟に吸収する新たな耐震の考え方の登場により、法的な制限をクリアしました。

 

高層にするためには、建物自体を軽経量化しなくてはなりません。

 

そのアイデアとして、外壁はコンクリートではなく、アルミバネルを使ったカーテンウォール工法を採用したのです。

 

現在では当たり前の工法ですが、建物の軽量化だけでなく、地震時などの建物のしなりに追従し、ゆがみの影響を少なくすることができる画期的なものでした。

 

また、ホテルの工期短縮で不可欠なのが、浴室工事の短縮化、軽量化です。

 

そこで、あらかじめ工場で生産し、現場で組み立てるプレファブリケーション(プレハブ)化された「セミキューブリック方式のユニットバス」が開発されました。

 

 

運搬しやすいように上下に分かれた構造となっており、器具や給排水管を組み込んだ腰フレームと上部壁フレームを工場でそれぞれ組み立て、ステンレス製の防水バンという受け皿を設置して、

 

その上に腰フレーム、さらに上部壁フレームを設置し、仕上げとして壁パネルやドア、器具類を取り付けて完成させます。

 

浴槽と洗面カウンターには、陶器ではなくFRP(繊維強化ブラスチック)が用いられています。

 

それまで浴室の重量は2tを超えていましたが、それを730kg程度と約1/3の重さまで軽量化。

 

その一方で、床はこれまで使い慣れたタイル張りとし、利用者に不安を与えないよう配慮。こうして2か月でユニットバスの据え付け工事を完了させました。

 

このときの考え方がユニットバスの原型となって、いまに引き継がれています。

 

◯一目で分かる京都のランドマーク

京都タワーは9階建てのビルの上部に載せられた独特な構造となっています。

 

 

ただ、最初からこのような建物が構想されていたわけではありまん。

 

当初の構想は、京都の財界が出資して観光会館を建設するものでした。

 

その後、ホテルや商店街、大浴場なども併設する複合ビルを建てることになったため、当時の建築基準法上の制限高さいっぱいの建物が計画されました。

 

時代は東京オリンピック。

 

各地でランドマークとなるタワーが建てられていた背景から「展望タワーを京都にも」と計画が持ち上がり、9階建てのビルの上部に載せることになったのです。

 

タワー部は屋上工作物として建築が許可されました。

 

直接地盤に建つ普通のタワーと異なる京都タワー独特のフォルムは、このようにして生まれたのです。

 

ただ京都には、高さ55mの東寺五重塔よりも高い建物を建ててはならないという不文律があったため、京都タワー建設当時は「応仁の乱以来の破壊」だと批判も受けたそうです。

 

地上131mの京都タワーの展望室は地上100mに位置します。

 

タワーの脚部は八角形をしており、8本の脚に分かれてビルに載せられていますが、8本の脚はそのままビルの柱に接続するよう配置されることで、ビルの屋上に100mタワーを載せることに成功しています。

 

ぼんぼりのような外部フレーム部分にガラスをはめる設計になっていましたが、曲面ガラス越しに見ると風景がゆがむことが工事中にわかり、フレームの内側に平面ガラスを設置する現在のような展望室となりました。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 

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