建築史シリーズ 日本の近代建築⑤
弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。
そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、
そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。
とは言え、私は専門的に教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。
本物のデザイナー、建築家というのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。
このシリーズではそうした美に携わった先人たちが紡ぎ上げてきた建築の歴史を中心にご紹介していきます。
◯ダイニング・キッチンの歴史
食卓と台所が同じスペース内の中にあるダイニング・キッチン(DK)。
今では当たり前となっている間取りですが、実は誕生するまでに歴史がありました。
なぜ間取りは大事なのでしょうか?
もし、あなたの寝室が台所や居間を兼ねていたら?
汚れや音、光、生活時間帯のずれなど、生活しづらそうです。
しかし、戦後はそんな間取りになどに気を配る余裕などありませんでした
住宅の不足数は450万戸に上ると言われ、都市部では多くの人が木やトタンで作られたバラックで生活していました。
そんな現況を当時東京大学の助教授だった吉武泰水は改善せねばと思いを強くしていきます。
終戦前に、大阪の長屋調査をしていた京都大学の助教授、西山卯三は、あることに気づきます。
それは日本人は室内空間が限られているとも食事室が優先されるということでした。
よく言われるように、日本家屋では寝る部屋の布団を畳んでしまい、そこににちゃぶ台を出して食事する、場合によっては客間も兼ねるという転用可能な空間の使い方をするのが特徴であると。
しかし、実際は全部が正しいわけではなく、ご飯を食べる空間を大事にする観念が間取りに染み込まれていたのです。
そこで「食寝分離」という理論が西山より提示されます。
その理論を知っていた吉武に、なるべき面積を抑えた公営住宅の設計指針の作成が任されるのです。
彼は数案検討し、生まれたのが51C型でした。
面積は39.00㎡(約11-8坪)でした。
この時はじめて台所と食事室が一体化したダイニング・キッチンが誕生し、食事の空間面積を取りつつ、寝る空間も確保し、そのうえ食寝分離を実現させたのです。
こうして居間と食堂が一体化したDKは、戦後復興のシンボルとして瞬く間に広がりました。
憧れのダイニング・キッチンはどんどん洗練されていき、ついにはリビングまでくっつけてLDKとなり、現代に至るのです。
◯しつらえの深み
その昔、寝殿造の頃の建築は柱だけの開放的なガランとした空間でした。
当時の人々はそこに御廉や几帳、壁代、扉風、衝立、障子や都戸などを用いて、必要なときに儀式の場や生活の場をつくり出したのです。
それがしつらいです。
西洋は部屋ごとに用途・置くものがきっちり決まっています。
「このように使いましょう」と使用目的がはっきりしています。
しつらいとは用途や生活、環境に合わせて空間を変化させるものがあるかが肝で、日本のしつらいの考えを取り入れると、空間に多様性が生まれてきます。
ですから、日本の障子や移動できる家具は都合がいいのです。
戦後まもなく建てられた清家清設計による斎藤助教授の家は、時代とともに進んでいくモダンな住宅の中にしつらいを取り入れたことが何よりも新しかったのです。
来日したドイツ人建築家ヴァルター・グロピウス(バウハウス初代校長。モダニズム建築の生みの親の一人)は、この建築を見て、「日本建築の伝統と近代建築の幸福な結婚」とまで言ったそうです。
しつらいのある住まいは、四季折々の自然を取り込んで楽しみ、行事に合わせて場を彩るなど、住まう人の好みに合わせて日々の暮らしを楽しく、豊かなものにしてくれるといえるでしょう。
◯ミニマムな住宅の誕生
1952年に竣工した最小限住居(増沢洵の自邸)は、狭小住宅の傑作といわれています。
そもそも計画のきっかけは、増沢洵自身が住宅金融公庫に応募し、当選したことにあります。
そして、戦後だったために極端な資材不足で、延床面積15坪までしか建てられないという制限がありました。
増沢が考え抜いてできたプランは、平屋が多かった時代にも関わらず、あえて2階建てとし、建築面積9坪という狭さにもかかわらず3坪の吹抜けを確保したものでした。
また、構造材を現しにするなど、必要ない仕上げを省いて無駄なコストがかからないようにしています。
要所に大開口を設けて吹抜けを計画することで、視線が抜けて外へ内へ多様なつながりがある大きなワンルームになっています。
また、与えられた面積を最大限に生かすには、廊下をゼロにして壁を減らすことがもっとも効率よく広がりを獲得しました。
最小限住宅は狭小住宅にも関わらず、間取りの変更など増改築を繰り返してきました。
住まいはしっかりとした骨格を最小限でつくっておけば、生活の変化にも柔軟に対応できることを示しています。
このようにして制限のかかった広さの中で、用途機能を満たし、かつコンパクトにまとめた空間が作り上げられたのです。
◯ピロティの意義
ピロティとは、ル・コルビュジエが「近代建築の五原則」として提示した要素の一つです。
それまでの西洋建築は、壁に囲まれているため、暗く閉鎖的で融通性がありませんでした。
そこでコルビュジエは一階の壁をなくし、ピロティとしました。
このピロティのおかげで壁に縛られることなく、空間を庭など、さまざまに使うことができるようになったのです。
日本では、丹下健三の設計による香川県県庁にピロティの魅力が強く出ていますね。
でも実は、ピロティ的なものは大昔から日本にありました。
例えば熊野神社の吹き放し空間は、礼拝以外の儀礼にも利用できるものです。
建具を外すと外部とのつながりが生まれ、ピロティ的な空間が現れます
それもそのはず。そもそも日本建築の性質そのものが多様な用途に対応できる空間であるためです。
ピロティは、アメリカなどに比べると敷地の狭い日本だからこそ、その効果を発揮します。
◯空の家
福岡久留米出身の建築家、菊竹清訓が手ずから設計した自宅であり、建築界デビュー作となった作品「スカイハウス」。
時は東京オリンピックを控え高度成長期の真っただ中。
新たな家族のあり方を提案する平面計画が多数登場する中、菊竹のスカイハウスは「究極の核家族住宅の提案」と称されています。
この建物の最大の特徴は「ムーブネット」という交換可能なユニットです。
浴室・トイレのある水廻りはユニットとして屋内で移動、取り替えができ、また空中高く持ち上げられた床下には空間ユニットの脱着が可能な構造となっています。
例えば子どもが成長すると床下から子ども部屋となる空間を吊り下げて増築し、子どもが独立していくと撤去して再び夫婦の住まいに戻せるといった使い方ができます。
つまり家族構成、年齢の変化に応じて、部屋の構成自体を自由に変えられたり、取り付け、取り外したりできる、まさに菊竹の理念である「代謝」を鮮烈に体現した作品と言ってもよいでしょう。
さの変更は自由自在
菊竹は久留米市の大地主の家に生まれました。
菊竹は最晩年のインタビューで、「戦後GHQに土地を奪われたこと(地主制度解体)に対する抗議ですね」と答えています。
スカイハウスの床が宙に浮いているのは、新しい土地を獲得する菊竹の思いを反映したのです。
菊竹の出身地では筑後川がよく氾濫し、たびたび洪水に見舞われました。
スカイハウスのメインフロアが地面と接地しない2階に設けられていることは、そうした災害の記憶の影響も少なくなかったでしょう。
スカイハウスは国内外に強い衝撃を与え、評価されました。
それは、日本の伝統的な住まい方とモダニズム建築の融合を明快かつ驚くべき形で提案したからにほかなりません。
また同時に体験や記憶、育った環境はその建築家が未来につくる建築に大きな影響を与えることがわかります。
以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。