大禅ビルのご近所偉人・貝原益軒
大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)の建つ舞鶴は、すぐ近くに福岡城跡があることからも分かるように、江戸時代においては筑前の政治の中心でした。
にぎやかな城下町も広がっており、仕事と暮らしのそれぞれのファクターがちょうどいい具合に交わっている今日の舞鶴と重なります。
本コラムでは福岡城(舞鶴城)をはじめ、黒田藩についてご紹介して参りました。
今回は逆に黒田藩に仕えた福岡の偉人をご紹介したいと思います。
その名は
「貝原益軒」
です。
福岡で生まれ、育ち、黒田藩に仕えた江戸有数の大学者です。
有名な彼の業績の一つは「濡衣塚」です。
博多区の千代、国道3号線の脇の千代3丁目交差点に「濡衣塚」という塚が建っています。
そこそこ大きい塚で、御笠川の川沿いの歩道の幅を半分も占めています。
実はこの塚は「無実の罪を負わされる」という意味の「濡れ衣」の語源となっています。
8世紀頃の聖武天皇の時代に、佐野近世という者が妻と一人娘・春姫を連れて筑前の国司として赴任したが、
在任中に妻が亡くなったため、現地の娘を後妻として迎え一女を授かったそうです。
ところが、連れ子の春姫が疎ましかった後妻が、漁師に
「春姫様が釣り衣を盗むので困っている」
と近世に訴えさせ、その証拠にと、濡れた釣り衣を着て眠っている春姫の姿を近世に見せました。
近世は怒ってその場で春姫を斬り捨てたといいます。
一年後、近世の夢に無実を訴える春姫が現れ、自分の行いを悔いた近世は出家して石堂川(今の御笠川)の傍に濡衣塚を造ったとされています。
いや、自分の娘を斬るかね!?事実確認もせずに・・・
と、現代の我々にはなかなか理解できない感覚ですが、ともかく継母によって、文字通り「濡れ衣」を着せられた約1300年前の女の子の不運を偲ぶのがこの塚なわけです。
玄武岩で造られた板碑は康永3年(1344年)の銘が刻まれていますので、既に室町時代から旧跡として認識されていたようです。
そして、この濡衣塚を実地で調査し、「濡れ衣を着せる」の語源を発掘したのが貝原益軒なんですね。
机上の学問を弄ぶのではなく、直接現地に出向いて自分の目で見て確かめるという地に足のついた実証を重んじる姿勢が現れています。
彼が著した『筑前国続風土記』にこの「濡れ衣を着せる」の逸話が収められています。
■幼い時から神童ぶりを発揮
貝原益軒の父・貝原寛斎は祐筆(書記)として福岡藩に仕えていました。
つまり益軒は公務員家庭に生まれたお坊ちゃんといったところでしょうか。
が、原因は不明ですが父の寛斎は一度職を辞し、町に入り、読み書きを教えたり、薬を調合したりして生計を立てるようになります。
それから益軒が8歳のときに再び藩に仕え、恰土郡井原村、今の前原へ移っていきます。
益軒は子どもの頃から神童ぶりを発揮していたと言われています。
ある時、彼の兄が『塵劫記(じんこうき;日本最初の算術書)』という和算のテキストを探しても見つからない。
よくよく探してみると益軒が読んでいました。
「お前、分かるのか」とやらせてみたら、ちゃんと解けたそうです。
後に益軒は数学をはじめ、農学、医学、天文、地理といった分野にも関心をもち、研究領域としていたことから、理系肌の学者だったと言えそうです。
■黒田藩に仕えるも2年でクビ!?
益軒は19歳で2代目藩主・黒田忠之の衣服調達の出納係として仕えますが、忠之の不興を買ってしまい、わずか2年で辞めさせられてしまいます。
理由はよく分かっていませんが、一説には陽明学を学んでいた益軒は、
自分が正しいと思ったことは遠慮せずに意見するというスタンスが殿様だった忠之の気に障ったのではないかと言われています。
そもそも忠之は前に本コラムでも紹介した通り、父親の長政ですらも廃嫡を考えたほどの問題児だったので、
周囲との軋轢は益軒に限ったことではなかったのかもしれませんが。
この数年間で益軒は長崎へ出向いて、多くの新書を読み、また生活のために医学の修業をします。
忠之のあと、息子の光之が3代藩主になると、益軒は父の仲介は改めて藩に出仕するようになります。
27歳の時でした。
幸いにして光之は忠之と違って学問を好む殿様でした。藩主交代で、やっと益軒の活躍の舞台が回ってきたわけです。
28歳のときには京都遊学の命を受け、藩のお金で学びにいきます。
京都では山崎闇斎や木下順庵といった当時の官学だった朱子学派の大学者を訪ね講義を聞き、また朱子学だけでなく博物学、数学なども学びました。
元々頭がよく読書家だった益軒にとって、伸び伸びと勉学に励めた時間だったのではないでしょうか。
■名著『筑前国続風土記』を著す
益軒は生涯85年の間に多くの著作を残しました。
例えば先に述べた『筑前国続風土記』。
これは藩の事業としてやった筑前国の地誌ですが、ぜひとも書きたいと要望したのは益軒本人だったんですね。
編纂の許可が下りたのは益軒が59歳の時、それから10年以上にわたる調査・執筆を経て、74歳の時に藩主に献上されました。
まさに益軒のライフワークと言うべき作品であり、日本各地で編纂された地誌のうちで最大の傑作の一つと言われています。
彼はこれを著すにあたり、甥の好古(よしふる)を連れて領内を踏破し、山に登って地形を俯瞰し記録することをひたすら繰り返し、
さらに土地の者からも様々な情報の聞き取りを行い、実地見聞に基づいて執筆しました。
70歳と言うと今でも後期高齢者に入ります。ましてや平均寿命の短かった当時の日本では超々高齢者でした。
『筑前国続風土記』は、そんな益軒が老体に鞭を打ち、情熱と向学心に駆られて完成させた大作なんですね。
『筑前国続風土記』には、当時の筑前国の行政区分、住民数、牛馬数、船の数、神社仏閣の数、
人口数や民家数、さらに山、川、島など地理情報、各地の歴史や産業、物産などが30巻にわたって記載されています。
例えば、筑前国の民戸は51,639軒、人数293,091人といった数字データから、
呉服町は「此町を始められし始め、呉服を売る商人を置ける故に町の名とす・・・」といった各町の由来まで詳細に記されており、学術的価値がとても高い。
■日本最古の農書『農業全書』のプロデュース
当時の筑前国には益軒と並んでもう一人著名な学者がいました。
「宮崎安貞」
です。
農学の大家として世に知られ、25歳の時に藩の役目を辞して糸島で農業生活に入り、中国の書物を参考にしながら農業実験を繰り返していました。
実地実験に加えて、西日本をくまなく巡回して調べた内容をもとに『農業全書』を執筆します。土の上から生まれた実践の書です。
安貞もまた益軒と同じく実証的なマインドの持ち主だったのか、2人は親しい交流をもっていました。
安貞は月1で益軒を訪ね、農書の講習を受けていたそうです。
『農業全書』が日本の農業に与えた影響は大きく、8代将軍の徳川吉宗が座右の書に加えただけでなく、
明治に至るまで何度も刊行され、長らく農業のバイブルとして読まれてきました。
そしてこの本の序文を書いたのが貝原益軒で、校正を行ったのは益軒の兄・楽軒でした。出版も貝原一族が深く関わったとされています。
益軒と安貞は良きパートナー同士だったのでしょう。
大禅ビルから徒歩10分ほどの荒戸の住宅街の中に、貝原益軒が暮らした屋敷跡を記す石碑が建っています。
そう、我らが福岡を代表する江戸時代の学者は、大禅ビルのご近所偉人でもあったわけです。