大濠公園の設計者・本多静六
■福岡一美しい公園
大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)から少し足を伸ばせば、福岡で最も美しい公園と誉れ高い大濠公園が広がっています。
静かな水面を湛えた湖を鳥や魚が遊び、公園の周辺を草木が点々と彩る。
人は行き交い、ぞれぞれの時間を思い思い楽しむ。
晴れた日には空の青さとも相まって、絵に描いたかのような風光明媚な空間が現れます。
私が大濠公園を好きな理由の一つは、自然と人の調和が素敵だからです。
町中の公園のような、植栽はあくまでも脇役という人工チックな空間ではなく、
かといって野山のような、野生の自然が圧倒的な主役を張る空間でもない。
大濠公園では、自然は自然そのままに、人々の「生活」もごく自然にそこに馴染んでいる空間。
自然も人も主役となって、共に風景の一部を創っています。
その調和に多くの人は格別な安らぎを覚えるのかもしれません。
この空間は、やって来る人々に実に色んな使われた方をされます。
散歩、サイクリング、ランニング、読書、遊び、くつろぎ、カフェ、レストラン、ヨガ、睡眠、写真撮影、観光・・・
などなど。
自然らしい風貌を持つ大濠公園は、観光地である以上の「生活を場」でもあります。
こうも広く、人々の様々な日常を引き受けてくれる自然豊かな場は、あまりお見かけしません。
更に、能楽堂、日本庭園、美術館といった洗練された文化発信拠点が周りを固め、隣接するのはこれまた歴史深き福岡城跡。
水と緑の豊かさ、そして高い文化性・歴史性も兼ね備える大濠エリアは、名実ともに福岡の一等地に数えられています。
■日本の公園の父
長く福岡市民に愛されてきた都会のオアシス・大濠公園を構想し、デザインに関わった人物がいます。
「日本の公園の父」と称された本多静六博士です。
金銭と蓄財のあるべき精神を説いた古典的名著『私の財産告白』の作者として、また大学教授でありながら一代にして巨額の財産を築いた成功者として、
主としてビジネスマンや経営者界隈で仰がれている偉人ですが、彼を偉人たらしめる起点は、まずは林業と造園の技術者の生き様に求められるべきでしょう。
彼の実績は驚くべきものです。
設計・改良に関わった公園は全国で70箇所以上に上り、あの明治神宮や日比谷公園も彼の手から生み出された景観です。
更に各都市の水道水源林の整備・拡充、国立公園法制定などにも携わり、人の暮らしを守る美しい国土づくりに生涯かけて尽力されました。
■日本初の鉄道防雪林
数ある博士の業績の中でもまず挙げられるのは「日本初の鉄道防雪林」の造成です。
1891年、鉄道の東北本線が全線開通しました。
しかし当時国内鉄道の最北に当たるため、吹雪による吹き溜まりや視界不良により冬の運行は困難を極めました。
列車の運行中止、それどころか吹雪の中での立ち往生も珍しくなく、非常時に備えてブランデーと干し飯まで積み込まれていたと記録に残されているほどです。
雪崩による脱線事故も起こり、また、除雪のために多額の人件費もかかっていました。
この地での鉄道インフラを守るための防雪林の造成を、鉄道会社の重役だった渋沢栄一に提言したのが、ドイツで林学を学び、諸国で防雪林の効用を視察してきた本多博士でした。
時に博士は26歳。
しかし渋沢はこの若き俊英に、鉄道防雪林の造成という大事業を託したのです。
本多博士の指揮のもと1893年に、青森県野辺地町に線路を吹雪から守る日本初の防雪林が延べ50ヘクタールにわたって造成されました。
植林の6~7年後には徐々に成果を示し始め、同線の吹雪被害は次第に沈静化していきました。
また、防雪林の維持・管理で発生する伐採木は、鉄道会社直営の製材所で加工され、駅舎用の建材や枕木に使われました。
更に余った材木は売却、防雪林の保守費用に当てられました。
まさに一石で二鳥も三鳥もの活躍を防雪林は果たしたのです。
木で生活のインフラ守る。
この実績をきっかけに鉄道林はその後日本各地に普及、鉄道を守り手として役割を拡げていき、奥羽本線、上越線などにも防雪林が設けられるようになります。
これらの沿線では毎年のように雪崩の発生で多大な犠牲者が出ていましたが、防雪林が造成されて以降、ほとんどなくなったそうです。
東北本線の野辺地には今も700本の杉の植林が残り、日本鉄道史の重要な足跡の一つとして鉄道記念物に指定されています。
■多摩川を救え!
明治時代、東京の多摩川上流域は荒廃を極めていました。
明治維新後、政府が地元住民の森林利用を禁止したため、それに反発した者が盗伐、乱伐を繰り返した結果、約5000ヘクタールの森林が無残にも「はげ山」となってしまったのです。
森林には大量の水を保ち水源を形成し、土を固定する「水源地涵養」と「土壌保持」の機能があり、「緑のダム」と呼ばれています。
鉄道と同じく、山林も「インフラ」なのです。
その森林が荒れますと保水力が落ち、雨は一挙に流れ出します。
それが土石流や洪水の一因として産業と生活の脅かすようになります。
多摩川は当時の東京にとって貴重な水源でした。
もしこのまま放って置くと、さらに大きな災害を引き起こしかねないと本多博士は考え、政府との交渉の末、8000ヘクタール以上の面積にわたり水源林の回復に着手します。
彼が最初に取りかかったのはヒノキやカラマツなどの植栽でした。大量の苗木や器具、食料が運び込まれ、植え付けはすべて人力で行われました。
この途方もない難事業に四苦八苦しながら、本多博士は10年以上もの時間を捧げます。
最終的には植栽した苗木はおよそ2500万本。
はげ山は見事にヒノキとカラマツの美しい森の山に戻ったのです。
驚くべきはこの奥多摩水源林の復活事業を、博士は私財を投じて完遂させたのです。単なるビジネスマンにできる芸当ではないでしょう。
■大濠公園構想の誕生
今の大濠公園がある場所はその昔、博多湾の入り海で、『万葉集』にも「草香江の入江」として記されています。
江戸時代になり、福岡藩初代藩主・黒田長政が福岡城を築く際に入り海を浚渫し一部を埋め立て、福岡城の西側を守る「大堀」としました。
公園の湖はもとは役場の防衛施設だったのですね。
それから時代は大正に移ります。
東公園の松林治療のために、東京帝国大学農学部教授だった本多博士が福岡に招かれた際に、
一緒に視察した西公園から大堀を見下ろして「西公園と対をなす景観として大堀を公園にしては?」と提案したのです。
「水面の面積だけでもおよそ30万坪、市内有数の広大な空き地なのに、今はなんら設備もなく遊ばせている・・・
ここを西公園とのセットで位置づけ、開闊瀟洒(=広く開けてお洒落)な一大水景公園が表れることを期待したい」と、改良計画の中で述べています。
これが大濠公園の構想の原点でした。
こうして考えますと、大濠公園は西公園をベースに着想した、いわば弟分の存在と言えるかもしれませんね。
そして本多博士は、公園造成にあたって埋め立てを行う部分を「水辺住宅敷地」としての活用するアイデアも提案しています。水景隣接住宅エリアの構想です。
今日の公園周辺エリアの活気と地価を見れば、実に先見性に富んだ見事な提案だったと言えるでしょう。
■本多博士の設計思想
本多博士の軸は林学でした。木々を守り、木々を活かす実学です。
その思想は彼の事業にも貫かれており、自然を「美」と「用」の双方からを捉える彼一流の思想が根底に流れているように感じます。
美観と実用の可能性を自然の中から発見し、それを風景として演出し、足を運びたくなる仕掛けをつくって市民に開放する。
そうして自然は人によって使われ、愛され、活かされ、人も自然によって癒やされ、明日への活力の糧となす。
本多博士は、自然と人との有機的な「共生と共創」の関係を創り出すセンスが抜群に優れたアーティストであり、事業家でもあったのだと思います。
同時に、自らの思想を実行するエネルギッシュな行動者でもあったはずで、ここでは紹介しきれませんが、
一個人のスケールを遥かに超える膨大な仕事量を、驚くべき深みをもって一生の内に成し遂げています。
我々の大濠公園は、そんな日本の林学・造園学の開祖と謳われる偉人の珠玉の作品なのです。