デザイナーたちの物語 吉坂隆正

弊社、大禅ビルが行っております貸しビル業は、本質的には空間に付加価値をつけていくプロデュース業だと考えています。

 

そのような仕事をさせて頂いている身ですから、建築やインテリア、ファッションといったデザイン全般にアンテナを張っており、

 

そこで得たヒントやインスピレーションを大禅ビルの空間づくりに活かすこともあります。

 

とは言え、私は専門的にデザイナーとしての教育を受けたことはありませんから、本職の方々と到底比べられません。

 

本物のデザイナーというのは、既存の概念を超越するような美を生み出すアーティストに近い存在と言ってよく、その足跡の後には全く新しい地平が拓けていくものだと思っています。

 

◯モダニズム建築を普及した日本人

今回ご紹介するのは吉阪隆正(1917-1980)です。

 
吉坂
 

巨匠、ル・コルビュジエの3人の日本人の弟子(前川國男、坂倉準三、吉阪隆正)のひとりとして、モダニズムの思想を日本に紹介し実践した建築家です。

 

それゆえ吉阪は戦後日本の建築史の中でも際立っています。

 

住居論から都市の全体計画まで、アジアからヨーロッパ、南米、アフリカまで、壮大なスケールの行動力と強烈なキャラクターで吉坂は学生や弟子を導いていきました。

 

 

吉坂は大正6年に東京小石川で生まれ、3歳の時に父の仕事の関係でスイスのローザンヌ ヘ渡ります。

 

幼い頃からスイスを中心に海外で育った吉坂は、この時代では比較的珍しい経歴を持つ建築家と言ってよいかもしれません。

 

昭和7年に家族と渡英しエジンバラ大学教授宅で約1年間単身で寄宿し、その後スイス・ジュネーブ・エコールアンテルナショナルを卒業。

 

帰国して早稲田大学高等学院、そして早稲田大学を通い、卒業と同時に同学の建築科教務補助を務めます。

 

北千島学術調査隊、北支満蒙調査隊といった重要な実地調査にも参加、その後召集に応じて従軍します。

 

終戦後、古巣の早稲田大学工学部の助教授に復任し、フランス政府給費留学生としてフランスヘ渡航します。

 

そこでル・コルビュジエのアトリエに弟子入り、彼のアトリエで勤務します。

 
コルビュジエ11
 

帰国後は早稲田大学に復職、さらに昭和15年早大アラスカ・マッキンレー隊隊長として、アラスカから北米西海岸を縦断。

 

昭和39年に、吉坂は学内で設計活動を開始。そこで設計組織として彼の名刺とも言える「U研究室」を創設します。いわゆるアトリ工系設計事務所ですね。

 

日本建築学会会長など多数の要職を歴任しつつ、昭和55年に亡くなりました。

 

◯逆さピラミッドの不可思議

ここで吉阪の代表作をいくつかご紹介します。

 

・江津市庁舎

 
吉坂
 

鉄筋コンクリート構造の5階建て、塔屋は4階建て、ピロティによるA棟と大地に建つ高層棟のB棟、背面にある消防車庫などのC棟から構成されています。

 

A棟はA形の巨大な支柱によるピロティが特徴で、この構造は橋梁技術を応用したプレストレストコンクリートによる柱です。

 

A形の柱によって生まれたピロティは交流空間となる市民広場が設けられています。

 

・大学セミナーハウス本館

 
吉坂
 

11年間、7期に渡って工事が行われた施設です。

 

国際基督教大学の職員だった飯田宗一郎によって、 教師と少人数の学生が寝食をともにしながら互いに学び、語らいながら人間的な交流を深める場として大学セミナーハウスの計画を提唱したのが始まりです。

 

この施設を実現するために飯田は財界や教育界に働きかけて支持を集め、昭和36年に財団法人大学セミナーハウスを設立し、

 

昭和40年に本館をはじめ、宿舎、セミナー室、中央セミナー室などの第1期工事が完成します。

 

このセミナーハウスの設計を担ったのが吉坂と彼のU研究室でした。

 

施設の拡張にともない、何期にも分けて設計が行われ、開館20周年記念館の設計に関しては吉阪が他界していたためU研究室のみで行っています。

 

見ての通り、ピラミッドを逆さまにした奇抜なフォルム。

 

先端部が地面に突き刺さったように見える本館が最も有名です。

 

視覚的に感じる力学的な作用を反転させることで、構造体の重量感を軽減させています。

 

また、斜めの壁は窓の庇として機能するよう設計されています。

 

吉阪は新しい大学のあり方を打ち立てたい思いを持ちながら、同時に高校から大学へ、大学から社会へというなかで学生が感じる漠然とした不安感に対して、

 

地に足さえついていれば大地に立つことができるというメッセージも作品に込められていると言われています。

 
吉坂
 

◯施主と共につくる作品の心

吉坂は、数学者の浦太郎とは1951年にマルセイユで出会って以来の友人であり、その後も親交を深めました。

 

その縁から、浦は帰国後の自邸の設計を吉阪に依頼。

 

その依頼に基づいて1956年に完成したのが浦邸であり、吉阪の代表作の一つとなっています。

 
吉坂
 

浦邸は吉坂自身が実際に手を動かしてスケッチを起こした数少ない作品の一つ。

 

赤レンガの凹凸が印象的な浦邸は、の字形をしたコンクリートの柱に持ち上げられ、宙に浮いたような住宅です。

 

浦邸では、くの字のコンクリート柱が2つの正方をつくるような基本構造となっています。

 

その正方形と45度ずれる形で床のスラブが配されているのは、自由な平面を実現するためです。

 

モジュールを用いて柱とスラブを強固につくることで、開口部の配置に自由度を持たせています。

 
吉坂
 

施主の要望は3つありました。

 

ピロティを用いること、土足で生活ができること、公私の生活が空間的に分けられていること。

 

これらの要望を適切な形に実現していくために、吉阪は施主と何度も手紙をやり取りしたそうです。

 

お互い納得のいくまでとことん話し合い、この住宅が生まれました。

 

この作品の設計には少なくとも一年をかけています。

 

時間をかけて設計することに関して、吉坂は「寝かせる時間を大切にしている」としています。

 

四季の移ろい、住まう者のライフステージの変化に浸透した設計がなされるべきという信念を吉坂は持っていました。

 

その作業には四季の変化を丁寧に踏まえる必要があったのです。

 

将来、施主が部屋の用途を変更できるようにと、可動式のパーティションも採用されました。

 

しかし浦夫妻は吉坂の設計への思いを保存したく、部屋の使い方を変更することはなかったのだそうです。

 

一見して無機質な鉄筋コンクリート造の建物ですが、壁にレンガがあしらわれ、周辺の植栽や壁を伝う植栽に馴染むような優しい調和を作り出している作品ですね。

 
吉坂
 

◯未来に投げかける思索

吉坂は「家は生活の器」であるとし、「住宅の設計、特に住み手が決まっている住宅の場合、時代背景のなかに位置付けるように、気候や風景のなかに納める」ことが大切と説きました。

 

生活の些細なディテール一つひとつをイメージしながら、住み手と建築家が一つの作品を仕上げていく過程そのものが、吉坂の作品で表現されているようにも見えます。

 

吉阪は「住居学から有形学へ」の中で「人間生態学 (エコロジー)とでもいうべきものが、住居学といえる」としています。

 

自然ではなく人間の造った人工環境を相手にするという新しい世界があり、

 

この人間の造った形、その形のでき方、形の中での反応、次に造るためにはどうしたらよいのかといったことが来たるべき世界の幸福のために必要だと語っています。

 

吉坂は自分の子どもに対しても「学問の世界は間口が狭くて上を見ると広い。だから下を見るより上を見る」と説かれたそうで、その眼差しはどこまでも未来志向でした。

 

優れた建築家は、建築家である前にまず思想家であると感じざるを得ません。

 

以上、大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)からでした。

 

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