古人の思いを引き受ける場所・西公園
■長旅に向かう者たちの立ち寄り地
その昔、福岡がまだ筑紫と呼ばれていた古代から、朝鮮半島や中国大陸に近接しているという地の利に恵まれていたため、大陸文化の窓口として開けていました。
そして多くの使節が大陸に旅立つ前に立ち寄った場所でもあります。
今であれば、福岡空港から上海までサクッと飛行機1時間弱。
東京に飛ぶのと同じくらい至便な世の中になっていますが、当時の人たちにとって海路で外国に行くのは、文字通り命がけの大冒険だったわけです。
遣唐使の成功率は、出発すらうまくいかず中止になった回も含めるとおよそ50%であると言われています。
賭けの世界に近い。
これほど成功率が低い理由は、一つは航海技術、造船技術の低さによるものです。
天気予報の技術はもちろんなく、海図もコンパスもありませんでした。
なんなら波に捕まった時の解決策は
「僧侶にお祈りを頼む」
の一択しかありません。
気合と運だけで大陸に辿り着こう!それが遣唐使・遣新羅使たちの特攻精神でした。
船も船で、波が来ると水が普通に船の縁を乗り越えて船内に入ってくる有り様。
わずか3m以上の波だけで転覆するような、冗談のような構造でした。
それもそのはずで、船底の基本骨格となる「竜骨」が無かったのです。
竜骨は船の背骨であり、竜の背骨を中心に左右対称に湾曲してのびる胸骨の造りに似ていることからその名がついたもの。
竜骨を備えた船底部は大きく開いたV字形になっているため、左右に傾いてもだるまのように、バランスを取り元に戻ろうとする力が働きます。
また、竜骨があると船底部の強度も増して、波の衝撃に対する耐久性も高くなります。
しかし、竜骨をもたない日本の船の船底は平らでした。
水に浮かべたタライを想像すると分かりやすいかもしれません。
ちょっとした水面の揺れだけでもたちまち体勢を崩して転覆しかねません。
波が叩きつける衝撃で船底や船側が破壊されるのもよくあったのでしょう。
加えて帆が重いため船のバランスが悪く、角度も変えられない仕組みなので順風の時しか使えない代物でした。
こんなスリル満点な船に、陰陽師や僧侶、役人、漕手ら合わせて100人も乗っていたそうです。
過積載も転覆の一因だったのではという研究もあるほどです。
こういう状況なので、遣唐使や遣新羅使は最先端の大陸文化を持ち帰る使命を担う誇りた仮名誉のある仕事であるはずですが、、、
そこは命あっての物種、学者や貴族が遣唐使・遣新羅使に選ばれても、中にはあらゆる理由をつけて回避しようとする者も現れるのは無理からぬことなのかもしれません。
誰も海の藻屑になんてなりたくないですからね・・・。
博多まで行き風のせいにして都に引き返し、遣唐使を辞退した者や、病気を言い立てたり母の世話のことを持ち出したりして遣唐使を辞退した者もいる。
国として遣唐使派遣の中止を決めたあの菅原道真も、一度は遣唐使に選ばれましたが、、、
本当は遣唐使なんて行きたくなかった気持ちが中止決定の裏にあったのではと言われているほどです。
もちろん、多くの者は役職を全うし、命の危険を冒して乗船したわけです。
だからここ福岡という地は、そうしたどう転ぶかも分からぬ長旅を控える人たちにとって、旅の出発地である以上に、自らの命運に切なる思いを交差させてきた地でもあったのです。
■遣新羅使の歌碑
先日は久しぶりに西公園に行ってきました。
大禅ビル(福岡市 舞鶴 貸し事務所)から車で10分もかからない近場なのに、本当に久方ぶり。
びっくりしたのは、こんなにも鬱蒼と植物が繁る緑豊かな山だったのかと。
まるで森、岬に立つ森林の山と言った風情です。
人の手間とセンスがあしらわれたお洒落な大濠公園とは違い、ありのままの自然をふんだんに残している植物空間。
クロマツ、コウヤマキ、クスの大樹が茂り、「日本さくら名所100選」にも選ばれた桜の名所でもあります。
さて、展望台の西側を行ったところに、博多湾を一望できる絶好のビューポイントがあります。
その側には遣新羅使のメンバーだった土師稲足(はにしのいなたり)の歌碑が建っていました。
神さぶる 荒津の崎に 寄する波
間無くや妹に 恋ひ渡りなむ
説明板にはこう書かれています。
「天平八年(西暦七三六年)に新羅の国に派遣された使節一行の中の土師稲足が往路でよんだ歌で、『神々しい荒津の崎に寄せる波のように、絶え間もなく妻を恋いつづけることであろうか。』という意味です
歌の中にある『荒津の崎』は、ここ西公園の突端です」
西公園は、古くから荒津山ないし荒戸山と呼ばれ、博多湾に突き出していました。
明治になってから「荒津山公園」とされ、その後西公園に改められ今に至ります。
歌に詠まれた「荒津の崎」は、西公園となった荒津山を指すのが通説のようです。
736年、土師稲足ら遣新羅使一行は筑紫館(つくしのむろつみ)、後の鴻臚館で七夕を迎え、荒津の崎を通り新羅に向けて船を発しました。
歌碑から海を臨めば絶景。眼下の博多湾に志賀島、能古島、玄界島の姿が広がります。
しかし、これから航海に出てゆく稲足には観光する余裕があったかどうか。
荒津の崎に絶え間なく打ち寄せる波のように、より一層不安が募ったことでしょう。
心は自然と残してきた妻に向かう。
ああ、妻が恋しい、ひと目会いたいと。この歌は、思慕の歌なのです。
同じ思いを詠った歌碑は大濠公園の中にもあります。
しろたへの 袖の別れを 難かたみして 荒津の浜に 宿りするかも
(あなたと離れ離れになるのが惜しいので、荒津の浜に一夜の宿をとってしまった)
かつては大濠公園辺りまでが海で、荒津の浜とよばれていました。
詠み人知らずのこの歌にも、別れに軋む切なる思いが滲みます。
■大濠公園と西公園の縁
ちなみに西公園は大濠公園とも縁が深い。
今の大濠公園がある場所はその昔、博多湾の入り海となっており、『万葉集』にも「草香江の入江」として記されています。
江戸時代になり、福岡藩初代藩主・黒田長政が福岡城を築く際に入り海を浚渫し一部を埋め立て、福岡城の西側を守る防衛施設「大堀」としました。
それから時代は大正となり、東京帝国大学農学部教授だった本多静六博士が福岡に招かれた際に、視察先の西公園から大堀を見下ろし、
「西公園と対をなす景観として大堀を公園にしては?」
というアイデアを提案したのです。
大濠公園の構想の原点は、西公園の山の上から生まれたわけですね。
今となっては大濠公園の方が福岡市民の憩いの場として圧倒的人気を誇っていますし、公園造成時に埋立てを行う部分を
「水辺住宅敷地」
とする博士の着想が功を奏し、いまや大濠公園周辺は福岡トップクラスの高級立地と化していますが、、、
両公園の由来を見ると大濠公園の親は西公園と言えるのかもしれませんね。
■思いが集う場所
大禅ビル(福岡市 赤坂 貸し事務所)の周辺はここ数年建設ラッシュにあり、人口が増え地価も上昇傾向と、勢いのある立地となりつつあります。
そうした経済的価値ももちろんこの場所の価値ではありますが、歴史を振り返ってみると分かるように、この近辺は古人たちの思慕と惜別の念を吐露した場所でもあったのです。
不動産は人と関わることで初めて価値を生み、人との関わり方で価値の有り様も変わっていくもの。
不動産業界にいる者として、大禅ビルは今後も目に見える土地や建物だけでなく、
それらを介して交差してきた人の思いも汲んでいけるような仕事をしていければと、歌碑を前にして改めて思った次第です。