―「不動産」と「人」との幸せな関係とは?―
不動産のおもしろ歴史②
今回も大禅ビル(福岡市 舞鶴 賃貸オフィス)の片隅から不動産の話をつらつら書いていきます。
前回は日本昔話ならぬ「日本不動産昔話」をして参りました。
農地と領民の住まう縄張りとしての土地から大化の改新による公地公民、班田収授法、
奈良時代の墾田永年私財法で土地の私有を認めたのを契機に、律令制に基づく土地制度が崩れ荘園が発生、守護・管理する武士を生む社会的土壌が形づくられていきました。
そして村街時代の惣村と郷村、戦国時代の豊臣秀吉による太閤検地で荘園が消滅します。
そして江戸時代。
土地は武家・寺社が8割を所有し、庶民は2割程度に対し、人口比率は武家・寺社と庶民の数は同等であったため、
庶民は狭い土地に密集して暮らす状況の中で、「長屋(賃貸)」が生まれます。
これが「不動産業の誕生」と言われています。
おさらいはこれぐらいにして、今回も引き続き不動産の歴史を書いてきます。
時代は近代、明治維新からです。
1867年の大政奉還により、明治政府が誕生しました。
とは言え日本は江戸末期からペリーの黒船など海外列強の脅威に晒されていたため、国力を早急につける必要に迫られていました。
「開国」プラスのイメージで語られがちですが、日本にとってそれは不平等条約とともに始まった茨の道だったわけです。
国力とは何か・・・・・・技術力、軍事力、経済力、人材など色々ありますが、何事においても先立つものが必要です。
つまり「金」なんです。日本は兎にも角にも、お金が必要だったのです。
国家経営の基盤は税による収入です。
土地を適切に管理のうえ、土地を税源としたかった明治政府は田畑永代売買禁令を解き、翌年には「地租改正」を実施し、全国で統一された課税制度を整備しました。
特徴としては、課税対象を農産物の収穫高から「地価」に、「物で納めていたのを金での納税に」「納税者は耕作者から土地のオーナー」へと変更されました。
ただもっと重要なので「土地を個人財産として土地取引や土地を使った担保」が可能となり、土地・建物が日本人の経済活動の一端となり社会の中に浸透していきました。
土地の測量結果は地券に記され、地券台帳に保管されました。今でいうところの登記簿ですね。
土地の取引や融資などはこの地券で行われるようになりました。
ちなみに法務局で登記簿を取られたことのある方は分かるかと思いますが、実際の地形と登記内容が合っていないことが多いのは、現在の土地台帳は、この地券台帳をもとに作成されているとも言われています。
さて、明治以降、日本は近代化の波に乗って都市開発を進めます。
1910年に日本初の木造積層共同住宅「上野倶楽部」が建てられます。
上野公園の隣でした。
洋風仕立ての瀟洒な外観を誇るアパートメントです。
日本人だけでなくロシア人やフランス人も入居されていたそうです。
それから皆さんご存知の「丸の内」。
日本の近代的な都市開発はここから始まったと言われています。
何かと財政難だった明治政府は、財源確保のため丸の内の土地を民間に払い下げました。
今でこそ高層ビルが林立する超のつく一等地で「丸の内OL」などここで働くこと自体がステータスのように言われています、当時は何もない原っぱだったそうです。
ここの開発に名乗りを上げたのがかの「三菱財閥」。
当時はロンドンに倣ったオフィス街を建てる計画でした。
「丸ビル」も1923年に完成し、今では当たり前になっているビル内のテナント商店街は当時ではまだ目新しく人々を驚かせました。
商業ビルの歴史に関するエピソードで、中国の歴史で「商業の神」と謳われ、唐の時代の最大の豪商・竇乂(どうがい)の話が有名です。
彼はもともと貴族の家系でしたが家が没落し、必要に迫って商売するようになります。
首都長安の一等地にひっそりと捨てられていた、使われなくなった汚水溜めの土地をただ同然で買い取り整地しました。
そこに20軒ほどの店舗を構えてテナント募集を始めたところ大成功を収め、勢いに乗った彼はその後次々と貸店舗を開発、やがてこのエリアは彼の名前をもじって「竇家店」と呼ばれ、長安有数の繁華街となりました。今でいうところの廃棄物埋立地の再開発ですね。誰からも見向きもされなかった無価値な土地に付加価値をつけたのです。
いつの時代も事業家は、人が目につけないところに目をつけ、人がやらないことをやる眼光と行動力をもった人なのかもしれませんね。
話戻って日本です。1916年に日本初の鉄筋コンクリート造の集合住宅が建てられます。
それがあの「軍艦島」です。
正しくは「端島」と言い、長崎港の沖合の石炭の島です。以後共同住宅が次々と建てられ、島はあたかも軍艦のような外観となっていきます。
こちらは三菱鉱業の関係者が住んでいました。
日本の都市開発においてもう一つのキーワードは「ニュータウン」です。
明治後期になると電鉄会社は沿線周辺の宅地開発を進め、その流れの中で大々的にニュータウンの開発を展開していきます。
ここで生まれたニュータウンがあのセレブの代名詞「田園調布」。
このブランドも丸の内と同じく、歴史によって培われてきたのでしょう。
利回りの高い投資対象として、不動産は世間の耳目と金を集めていきます。
更に時代下って戦後。華やかな近代都市とは一転、ぺんぺん草も残らない焼け野原です。
都市を復興させるには、まずは食、そして住宅の確保が重要でした。
そこで当時の政府は、日本住宅公団や住宅金融公庫といった住宅施策を推進するための公的機関を設置しました。
これらの公的機関設立がきっかけとなり、莫大な費用がかかる分譲・賃貸マンションの建設が急激に加速しました。
ただ、マンションが一般庶民に受け入れられるようになるにはもう少し先の話です。
この時期に建てられた分譲マンションの価格は500~800万円でしたが、平均的サラリーマンの年収が20万円前後で、庶民にとって高嶺の花でした。
開発のみならず、不動産を仲介・販売に特化した不動産会社も生まれます。
現存している不動産会社では、1896年に東京の日本橋で創設された「東京建物」だといわれています。
今年で122年目になります。それから皆さんも良くご存知の「三井不動産」の創業が1941年、「住友不動産」が1949年。いずれも老舗不動産屋さんですね。
前回も書いた通り、不動産業の起こりは江戸時代に遡ると言われています。
長屋など住宅だけでなく、農地の貸し借りもあったそうです。
それらも個人間での貸し借りというが多く、現在の不動産会社のように借家や借地を専門で仲介する文化はなかったものの、借家や借地を管理する人はいたようです。
当時は「差配人」と呼んでいました。ただ差配人のほとんどが、その街の世話役のような人たちで、自身で事業として口利きをやっているというよりも、富豪や地主といった街の実力者の命令により、管理していたようです。
さて、これまで見てきました通り、土地は単なる縄張りから、その上に建物が多くたち、今では国の安定と経済に寄与する重要な機能を持つようになりました。
収穫物を得るための土地から形を変えていき、開発、仲介、管理のビジネスを生み出し、さらに金融商品となり、戦後の高度経済成長では代表的な投資商品として土地・建物が取り扱われるようになりました。
社会発展の途上で、建物自体も一戸建て、マンション、アパート、貸しビルなど様々な形態が現れます。
まさに不動産の歴史は土地の歴史であり、社会の歴史であり、人の歴史そのものと言えそうですね。